2008年10月13日
俳諧物語・興居島-第四帖「大山祗神社」
興居島の由良の港から1~2kmほど北に行くと、道の左手の山すそに「岩神神社」という、巨大な花崗岩を御神体とする神社がある。昨年の夏参拝し、このブログにも、その由来やら経緯を書いているが、「岩長姫」という祭神が祀られている。ブログを書くに当たって、その「岩長姫」のことをあれこれ調べているうちに、その姫の父神が今治の大山祗神社の祭神「大山祗大神」であることを知った。
また、「捨て聖」一遍上人を追っかけているうちに、伊予の大豪族河野家の血を引く上人が、正応元年(1288)十二月と翌二年二月の二度、大三島を訪れて、先祖と縁の深いこの神社に参拝したことを知った。以来、この神社がやたらと気になり始めて、いつかお参りしてみたいと思っていた。期せずしてその機会が意外に早く訪れた。
天気予報とは裏腹に、空には一面に雲がかかっており、せっかくの休日ドライブも気持ちが弾まない。しかし、車が今治ICから「しまなみ街道」に乗った途端に、目の前に広がる景色が、気分を一変させる。来島海峡に所狭しと点在する島々が作り出す風景は、まさに絶景と呼ぶに相応しい。数日前に「スリーデイズウォーク」とかいうイベントに、全国から多数の人々が集まったと聞いたが、さもありなんと納得した。その美しい景色を十分に堪能する間もなく、車は「大島」「伯方島」を過ぎて、目的の「大三島」ICに、あっという間に到着する。
この社が祭られたのは、養老三年(719)というから、今から1290年ほど前である。しかし、境内を取り囲むようにして生い茂る楠の大木群は、樹齢2000年を超えると言われる。この神社が営まれるずっと以前から、このあたりは楠の大樹の生い茂る処であったということになる。それらの大樹の中でも、ひときわ目立っている木は、大山祇神の孫の乎千命(おちのみこと)が手ずからに植えたと伝えられる一木である。その大樹のそばの看板には、樹齢2600年と書いてある。人間で言えば100歳をゆうに超えているのではなかろうか。痛ましいというより、少々異様にすら見える。
この看板を見て、伊予の豪族越智家の祖となった和気姫の第三子も、小千御子(おちのみこ)と呼ばれたことを思い出して、興居島との因縁を強く感じたのだが、どうやら繋がりはなさそうだ。(孝霊天皇の孫にあたる小千御子は、天皇の在位時期からすると紀元前200年以前の人と推察される。)
この神社は、山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社である。源氏、平家をはじめ多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈ったため、国宝、重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっているらしい。それらは、本殿の右側にある「宝物殿」に収められている。
また、「捨て聖」一遍上人を追っかけているうちに、伊予の大豪族河野家の血を引く上人が、正応元年(1288)十二月と翌二年二月の二度、大三島を訪れて、先祖と縁の深いこの神社に参拝したことを知った。以来、この神社がやたらと気になり始めて、いつかお参りしてみたいと思っていた。期せずしてその機会が意外に早く訪れた。
天気予報とは裏腹に、空には一面に雲がかかっており、せっかくの休日ドライブも気持ちが弾まない。しかし、車が今治ICから「しまなみ街道」に乗った途端に、目の前に広がる景色が、気分を一変させる。来島海峡に所狭しと点在する島々が作り出す風景は、まさに絶景と呼ぶに相応しい。数日前に「スリーデイズウォーク」とかいうイベントに、全国から多数の人々が集まったと聞いたが、さもありなんと納得した。その美しい景色を十分に堪能する間もなく、車は「大島」「伯方島」を過ぎて、目的の「大三島」ICに、あっという間に到着する。
この社が祭られたのは、養老三年(719)というから、今から1290年ほど前である。しかし、境内を取り囲むようにして生い茂る楠の大木群は、樹齢2000年を超えると言われる。この神社が営まれるずっと以前から、このあたりは楠の大樹の生い茂る処であったということになる。それらの大樹の中でも、ひときわ目立っている木は、大山祇神の孫の乎千命(おちのみこと)が手ずからに植えたと伝えられる一木である。その大樹のそばの看板には、樹齢2600年と書いてある。人間で言えば100歳をゆうに超えているのではなかろうか。痛ましいというより、少々異様にすら見える。
この看板を見て、伊予の豪族越智家の祖となった和気姫の第三子も、小千御子(おちのみこ)と呼ばれたことを思い出して、興居島との因縁を強く感じたのだが、どうやら繋がりはなさそうだ。(孝霊天皇の孫にあたる小千御子は、天皇の在位時期からすると紀元前200年以前の人と推察される。)
この神社は、山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社である。源氏、平家をはじめ多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈ったため、国宝、重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっているらしい。それらは、本殿の右側にある「宝物殿」に収められている。
2008年10月09日
俳諧物語・鷹子の山辺の道―第六帖「道路工事」
半月ほど前から古墳農園に、コスモスが咲き誇って我らが「山辺の道」に秋が訪れたことを告げている。この6月にこの地に移り住んだ時には、アジサイの花が一面に咲き乱れて、新しい住民に素晴らしい歓迎の宴を開いてくれた。夏には近くの子供たちと一緒に幻想的な灯りを燈して、ここに眠る古代の人々との交流の場を作ってくれた。その場所に異変が起ころうとしている。この写真の中央にある看板が、その異変を象徴している。道路工事が始まるというのである。
どうしてこんな山里に新しい道路が必要なのだ。市の財政は破綻寸前だというのに、何を仕出かすのかと、首をかしがながら看板をよく見ると、配管工事のためのようである。すぐそばにある運動公園の地下にある配水池と山の裏側にある集落との間に、上水道の管を敷設するために、大規模な道路工事が行われるらしい。松山市は、毎年のように夏場水不足に悩まされており、市の中でも互いにやりくりをして、しのいでいかざるを得ないということか?
それにしても、何と痛ましい姿であろうか。その配水池の周辺に植えられていた何本かの桜の木が、切り株のみを残して、いつの間にか姿を消してしまっている。来年の春の満開の花を楽しみにしていたのに。
アジサイの季節に、アマガエルと鶯と名も知らない小鳥達が活躍していたコンサートホールも、掘り返されてむき出しになった赤土に覆われて、荒々しい手術の跡のように痛々しい。ついこの間まで、手前の池は、極楽浄土を思わせる蓮の花に埋め尽くされていた。その花々も姿を消し、枯れかけた葉だけがかろうじて、かすかな緑を保っている。その自然の摂理による現象すら、この工事のせいにしたくなる。それが人々の暮らしを守るための工事であるとは言え、やるせない思いにかられる。

その蓮池の脇には、隣の町に通じる小道がある。その小道の両脇にある小さな畑を囲むようにして咲くコスモスが、朝夕の散歩を楽しむ人々に、この痛ましさを忘れさせようと微笑みかける。しかし、この道の先にも、あのシャベルによって傷つけられた、痛ましい姿が続いている。
看板の情報によると、工事は来年の3月まで続くらしい。これからの半年の工事の喧騒は、やがて時間とともに消えて、元の静けさに帰っていくであろうが、これまであった「山辺の道」のあの姿は、戻ってくるのであろうか?
どうしてこんな山里に新しい道路が必要なのだ。市の財政は破綻寸前だというのに、何を仕出かすのかと、首をかしがながら看板をよく見ると、配管工事のためのようである。すぐそばにある運動公園の地下にある配水池と山の裏側にある集落との間に、上水道の管を敷設するために、大規模な道路工事が行われるらしい。松山市は、毎年のように夏場水不足に悩まされており、市の中でも互いにやりくりをして、しのいでいかざるを得ないということか?
それにしても、何と痛ましい姿であろうか。その配水池の周辺に植えられていた何本かの桜の木が、切り株のみを残して、いつの間にか姿を消してしまっている。来年の春の満開の花を楽しみにしていたのに。
アジサイの季節に、アマガエルと鶯と名も知らない小鳥達が活躍していたコンサートホールも、掘り返されてむき出しになった赤土に覆われて、荒々しい手術の跡のように痛々しい。ついこの間まで、手前の池は、極楽浄土を思わせる蓮の花に埋め尽くされていた。その花々も姿を消し、枯れかけた葉だけがかろうじて、かすかな緑を保っている。その自然の摂理による現象すら、この工事のせいにしたくなる。それが人々の暮らしを守るための工事であるとは言え、やるせない思いにかられる。
その蓮池の脇には、隣の町に通じる小道がある。その小道の両脇にある小さな畑を囲むようにして咲くコスモスが、朝夕の散歩を楽しむ人々に、この痛ましさを忘れさせようと微笑みかける。しかし、この道の先にも、あのシャベルによって傷つけられた、痛ましい姿が続いている。
看板の情報によると、工事は来年の3月まで続くらしい。これからの半年の工事の喧騒は、やがて時間とともに消えて、元の静けさに帰っていくであろうが、これまであった「山辺の道」のあの姿は、戻ってくるのであろうか?
2008年10月08日
俳諧物語・興居島-第三帖「船踊り」
鷲ヶ巣のさわやかな浜風をうけながら食べるお弁当は、高級レストランのどんなお料理にも負けない程に美味しい。食べ終わった一行が次に目指すのは、いよいよ「船踊り」の会場「船越公園」である。釣島に別れを告げる間もなく、その会場の前の「和気比売神社」に到着する。「むかし、この島の和気五郎太夫という魚師が、ある日波間に漂う見慣れぬ壷を見つけて拾い上げると、壷の中に可愛い女の子が居た。子供の居なかった五郎太夫は、子供を天から授かったと大喜びして、大事に育てた。美しい娘で和気姫と呼ばれた。やがて、和気姫は、伊予皇子(孝霊天皇の第三皇子)と結ばれ、3人の男子を産んだ。その子らをそれぞれ三艘の小船に乗せて海に放ったところ、第一子は伊豆の国に、第二子は備前児島に、第三子は伊予の国三津浦に流れついた。その後、それぞれの地の豪族として栄えたが、第三子小千御子(おちのみこ)は、伊予の大豪族越智家の祖となった。」という、あの伝説の主、和気姫が祀られている神社である。
承平年間(923~935)に遡るといわれる「船踊り」は、伊予水軍が海賊退治から凱旋したとき、これを迎える島民たちの前で、戦いの模様を武者踊りとして再現して見せたことに始まるとされる。その場所が、この船越の「和気比売神社」のすぐ前であったことから、いつの間にか踊りはこの神社の祭礼神事として、取り入れられるようになったといわれている。
車を降りるや否や、公園に集まっていた大勢の群集がざわついている。急いで岸壁に近づいてみると、どうやら踊りの主役達が由良の港から船で到着したようだ。
そうこうする内に、ちょうど一年ほど前に由良小学校の体育館で聞いたあの太鼓のリズムが、響いてきた。
サッサ ケラマカッセー セーラ ホーホンエーラ ホーエンヤエェー
ヨイヤ サノサ サッサ ケラマカッセー
「船踊り」の始まりである。
「○○チャン頑張れー」「日本いちー」集まった人々から、ひっきりなしに応援の声が飛ぶ。見物する人々の顔は、みな笑顔に輝いている。海の上の舞台と、岸壁の観衆が一体となった、年に一度の島の行事は、この後2時間にわたって繰り広げられた。公園の奥の神社では、あの和気姫様も、その一部始終をにこやかな笑顔で静かに見守っているに違いない。

昨年この踊りを見るまでは、この島はどこか永い眠りについているような感じがしていた。ところがどっこい、踊りがはじまると同時に遠い昔の「伊予水軍」のエネルギーが、再び吹き出してきて、わくわくするような島になっていたのに、驚いたものだった。今回もまさに伝説と伝統の力が、島の人々に活力を吹き込みながら、「がんばれ」と励ましているかのようであった。
3時5分由良発高浜行きのフェリーが出航しようとしている。島での滞在時間は、わずか4時間半ほどであった。しかし、この「船踊り」だけを見に来られた人も、「愛好会発会」に参加された人も、たっぷりと島の魅力に浸った時間をお土産にして、船に乗り込んで下さったに違いない。
承平年間(923~935)に遡るといわれる「船踊り」は、伊予水軍が海賊退治から凱旋したとき、これを迎える島民たちの前で、戦いの模様を武者踊りとして再現して見せたことに始まるとされる。その場所が、この船越の「和気比売神社」のすぐ前であったことから、いつの間にか踊りはこの神社の祭礼神事として、取り入れられるようになったといわれている。
車を降りるや否や、公園に集まっていた大勢の群集がざわついている。急いで岸壁に近づいてみると、どうやら踊りの主役達が由良の港から船で到着したようだ。
そうこうする内に、ちょうど一年ほど前に由良小学校の体育館で聞いたあの太鼓のリズムが、響いてきた。
サッサ ケラマカッセー セーラ ホーホンエーラ ホーエンヤエェー
ヨイヤ サノサ サッサ ケラマカッセー
「船踊り」の始まりである。
「○○チャン頑張れー」「日本いちー」集まった人々から、ひっきりなしに応援の声が飛ぶ。見物する人々の顔は、みな笑顔に輝いている。海の上の舞台と、岸壁の観衆が一体となった、年に一度の島の行事は、この後2時間にわたって繰り広げられた。公園の奥の神社では、あの和気姫様も、その一部始終をにこやかな笑顔で静かに見守っているに違いない。
昨年この踊りを見るまでは、この島はどこか永い眠りについているような感じがしていた。ところがどっこい、踊りがはじまると同時に遠い昔の「伊予水軍」のエネルギーが、再び吹き出してきて、わくわくするような島になっていたのに、驚いたものだった。今回もまさに伝説と伝統の力が、島の人々に活力を吹き込みながら、「がんばれ」と励ましているかのようであった。
3時5分由良発高浜行きのフェリーが出航しようとしている。島での滞在時間は、わずか4時間半ほどであった。しかし、この「船踊り」だけを見に来られた人も、「愛好会発会」に参加された人も、たっぷりと島の魅力に浸った時間をお土産にして、船に乗り込んで下さったに違いない。
2008年10月07日
俳諧物語・興居島-第二帖「島巡り」
発足会を終えて、一行は「船踊り」の会場である船越公園前に移動する。海岸沿いの道を行けば、車なら五分とかからないところだが、2,3日前の土砂崩れでその道がふさがれているらしい。そのためにと言うよりも、まずもってこの島の素晴らしい景色を新しいメンバーの方々に堪能していただくために、迂回路をゆくことになった。軽トラ2台と乗用車に1台に分乗して出発した一行は、由良小学校の横道を登って、一度島の反対側に出る。峠を越えると、忽那の島々を浮かべた穏やかな瀬戸内海が、目の前いっぱいに広がる。数ある島の宝物のうちでも、この景色は格別である。それまで軽トラの荷台でしゃがみこんで大人しくしていたが、途端に立ち上がって仁王立ちになり、海からの風を体いっぱいに受けて、やがて凧になっていた。テニスボールの大きさに育った伊予柑が、まわりの山一面を埋め尽くしている。
高戸山の麓のOさんの山荘近くを通って暫く行くと、今度は前方に釣り島、左手に小富士山、右手にさっきから見てきた忽那の島々、眼下には鷲ヶ巣の浜が一望できるポイントに到着する。車を止めて会員さんたちは、Oさんからこの素晴らしい景色の解説に耳を傾ける。釣島は、フェリーから見た小富士山と同様に、霞がかかってぼんやりとしている。来月の我々の訪問を歓迎するかのように、昼間だというのに灯台が時折光を放っている。

遠くにかすむ島々や鷲ヶ巣の浜の美しさに、誰もが見とれてしまうこのポイントのその道路の脇の茂みの影にひっそりと立つ小さなお堂がある。島四国五十二番札所「仙遊寺」である。こんな立派な道路が出来るずっと以前には、このあたりに仙人が住んでいて、この景色を楽しみながら島の人々の暮らしを見守っていたとしても不思議ではない。
美しい眺めに名残を惜しんで、一行は鷲ヶ巣の浜へと下りる。シーズンを外れた人っ子一人いない海水浴場は、どこまでも静かで少々物悲しい。さっき山の上から眺めた釣島も、凪の海に眠っているかのように横たわっている。

浜にそって走る道路の反対側に、小さな公園がある。ここが今日の昼食の場所である。メンバーは思い思いに腰を下ろして、配られたお弁当に舌鼓を打つ。
高戸山の麓のOさんの山荘近くを通って暫く行くと、今度は前方に釣り島、左手に小富士山、右手にさっきから見てきた忽那の島々、眼下には鷲ヶ巣の浜が一望できるポイントに到着する。車を止めて会員さんたちは、Oさんからこの素晴らしい景色の解説に耳を傾ける。釣島は、フェリーから見た小富士山と同様に、霞がかかってぼんやりとしている。来月の我々の訪問を歓迎するかのように、昼間だというのに灯台が時折光を放っている。
遠くにかすむ島々や鷲ヶ巣の浜の美しさに、誰もが見とれてしまうこのポイントのその道路の脇の茂みの影にひっそりと立つ小さなお堂がある。島四国五十二番札所「仙遊寺」である。こんな立派な道路が出来るずっと以前には、このあたりに仙人が住んでいて、この景色を楽しみながら島の人々の暮らしを見守っていたとしても不思議ではない。
美しい眺めに名残を惜しんで、一行は鷲ヶ巣の浜へと下りる。シーズンを外れた人っ子一人いない海水浴場は、どこまでも静かで少々物悲しい。さっき山の上から眺めた釣島も、凪の海に眠っているかのように横たわっている。
浜にそって走る道路の反対側に、小さな公園がある。ここが今日の昼食の場所である。メンバーは思い思いに腰を下ろして、配られたお弁当に舌鼓を打つ。
2008年10月05日
俳諧物語・興居島―第一帖「愛好会発足」
10月4日10時40分高浜発由良行きのフェリー「あいらんど号」は、いつもの日曜日より多くの乗船客を乗せて、時間通り静かに出港した。このところぐずついていた天気も、昨日からカラッと晴れ上がって、秋晴れの空は、一段と高さを増している。しかし、今日の小富士の山は、幾分靄がかかってなんだか恥らっているように見える。

今日は待ちに待った我らが「興居島愛好会」の発足会の日である。昨年の5月にOさんに誘われて、初めて興居島を訪れ、たちまちその魅力に取り付かれてしまった。四季折々の眺めといい、島の至る所に残されている伝説や歴史の痕跡といい、現代人が最も必要としている品々が、どうしてこれまでうち捨てられてきたのか、不思議でならなかった。何とかして、この素晴らしい宝物を一刻も早く皆に知ってもらい、末永く残して生きたい。そんな思いで始まったささやかな活動が、こうしてようやく愛好会発足の日を迎えようとしている。そんな晴れがましい日を迎えて、小富士の山もさぞかし嬉しかろうが、霞の陰にその嬉しさを押し隠しているのか?そんなつかの間の感慨に浸っているうちに、いつの間にか船は、由良の港についてしまった。
今日の由良の港には、大漁旗を立て太鼓を仕立てた船が停泊していて、いつもより華やいでいる。そう、今日は愛好会の発足会とともに「船踊り」の日でもある。その祭りの主役達が、これらの着飾った船に乗って、この港から会場の船越公園前まで海上を移動するのである。桟橋の向こうには、小富士汽船の社長のYさんのにこやかな笑顔が、出迎えてくれている。

やがて由良のフェリー待合室にて、「発足会」が始まる。まず、世話人代表のOさんから、今日始めて参加された人たちに、会のこれまでの経緯や主旨を説明していただく。事前打ち合わせの時には、腰が引けていた感じのOさんも、本番が始まると観念したのか、しっかりと世話人代表のお役目を果たしていただいた。引き続き、会員紹介・行事計画・ホームページの紹介と事務局から説明が続く。行事計画には、今日の「船踊り見学」に始まって、来年の9月まで「釣島灯台めぐり」「蜜柑狩り」「高戸山句会」など毎月魅力的なイベントで、埋め尽くされている。事務局のTさんが、昨年暮れから手塩にかけて作り上げた「愛好会ホームページ」も、晴れてお披露目と相成った。愛好会発会を機に「俳句コーナー」なども加わって、今後益々充実していくことだろう。
急な話だったので会員全員参加とはいかなかったが、予想以上に多数の方々に新しくご出席いただき、無事に発足会を終えることが出来、いよいよ発足会の舞台は、「船踊り」の会場へと移っていく。
今日は待ちに待った我らが「興居島愛好会」の発足会の日である。昨年の5月にOさんに誘われて、初めて興居島を訪れ、たちまちその魅力に取り付かれてしまった。四季折々の眺めといい、島の至る所に残されている伝説や歴史の痕跡といい、現代人が最も必要としている品々が、どうしてこれまでうち捨てられてきたのか、不思議でならなかった。何とかして、この素晴らしい宝物を一刻も早く皆に知ってもらい、末永く残して生きたい。そんな思いで始まったささやかな活動が、こうしてようやく愛好会発足の日を迎えようとしている。そんな晴れがましい日を迎えて、小富士の山もさぞかし嬉しかろうが、霞の陰にその嬉しさを押し隠しているのか?そんなつかの間の感慨に浸っているうちに、いつの間にか船は、由良の港についてしまった。
今日の由良の港には、大漁旗を立て太鼓を仕立てた船が停泊していて、いつもより華やいでいる。そう、今日は愛好会の発足会とともに「船踊り」の日でもある。その祭りの主役達が、これらの着飾った船に乗って、この港から会場の船越公園前まで海上を移動するのである。桟橋の向こうには、小富士汽船の社長のYさんのにこやかな笑顔が、出迎えてくれている。
やがて由良のフェリー待合室にて、「発足会」が始まる。まず、世話人代表のOさんから、今日始めて参加された人たちに、会のこれまでの経緯や主旨を説明していただく。事前打ち合わせの時には、腰が引けていた感じのOさんも、本番が始まると観念したのか、しっかりと世話人代表のお役目を果たしていただいた。引き続き、会員紹介・行事計画・ホームページの紹介と事務局から説明が続く。行事計画には、今日の「船踊り見学」に始まって、来年の9月まで「釣島灯台めぐり」「蜜柑狩り」「高戸山句会」など毎月魅力的なイベントで、埋め尽くされている。事務局のTさんが、昨年暮れから手塩にかけて作り上げた「愛好会ホームページ」も、晴れてお披露目と相成った。愛好会発会を機に「俳句コーナー」なども加わって、今後益々充実していくことだろう。
急な話だったので会員全員参加とはいかなかったが、予想以上に多数の方々に新しくご出席いただき、無事に発足会を終えることが出来、いよいよ発足会の舞台は、「船踊り」の会場へと移っていく。
2008年09月28日
俳諧物語・鷹子の山辺の道―第五帖「夕焼け」
2008年の9月27日の夕暮れ時、鷹子の山辺の道はこんな空に覆われていた。最近では、少々美しいといわれる女性を見ても、ほとんど心を動かされることがなくなったが、こんな景色を見ると、思わず立ち止まって得もいえない感動を覚えてしまうことが多くなった。年とともに人は感傷的になるのであろうか?
それにしても、なんと見事な美しさであろうか?まさに雲と空気と太陽の光が織り成す芸術である。人間の小賢しい思考をまったく排除した、自然ならではの美しさである。それはまた、少しのミステリアスを覗かせて、見る者に恐怖すら与える奇怪な美しさでもある。
夕焼け小焼けで 日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る
お手々つないで みな帰ろ からすと一緒に帰りましょ
かの童謡「夕焼け小焼け」には、日本人の宗教観・自然観・生命観といったものが凝縮されていると、言った宗教学者がいた。日本人は仏教を受け入れて以来、あの落日のかなたに浄土をイメージしてきた。人はみな煩悩に翻弄されながらも、われを忘れて懸命に生きて、「夕焼け小焼けで陽が暮れて山のお寺の鐘が鳴る」頃にはその浄土へと帰っていき、そしてまた、やがて日が昇るように輪廻再生する。「お手てつないでみなかえろ」この歌詞は「働きづめに働いてきたけど、そそそろ帰るべきところに帰ろうよ」というメッセージだという。そしてまた、「カラスと一緒に帰りましょ」というのは、動物や自然との「共生」を歌いこんだものという。
自分も日本人の一人として、その宗教観・自然観・生命観を持ち合わせていて、人生のたそがれを迎えようとする今、こんな夕焼けに包まれると、無意識のうちに得体の知れない感動がこみ上げてくるのであろうか?それとも、ただ感傷的になっただけなのだろうか?
「感傷的であることが芸術的であるかのように考えるのは、ひとつの感傷でしかない。感傷的であることが宗教的であるかのように考える者にいたっては、さらにそれ以上感傷的であるといわねばならぬ。宗教はもとより、芸術も感傷からの脱出である。」といった哲学者もいる。
2008年08月27日
俳諧物語・鷹子の山辺の道―第四帖「浄土寺」
松山市近郊には、四国八十八ヶ寺のうち四十六番の浄瑠璃寺から五十三番の円明寺までの八ヶ寺が集中している。そのうちの四十九番札所の浄土寺は、われらが山辺の道のとっておきの癒しのスポットのひとつである。第一帖で紹介した「蓮池」から西に下って「極楽寺」を通りこし、一キロ程のところにあるこの寺は、天平年間(七二九~四九)に孝謙天皇(在位七四九~七〇)の勅願によって恵明上人が創建したそうだ。
空也上人が三年の間この寺にとどまり、里人の教化に尽くしたとされ、本尊の釈迦三尊像とともに上人の像が安置されている。その像は、肉の削げ落ちた体に粗末な法衣をまとい、念仏を唱えながら開いた口から、6個の小さな仏像を連なって吐き出している。念仏「南無阿弥陀仏」の一言一言が仏となることの、表現らしい。
醍醐天皇の皇子ともいわれる上人は、念仏を唱えて全国を行脚し、道を開き橋を架け井戸を掘って、民衆を救済したとされる。あるとき、空也上人が京都の町中を歩いている時、ひとりの高僧が教えを乞うた。上人曰く「あなたのような立派な方に、私のような者がお教えすることは何もない」と言って立ち去ろうとするが、さらに袖をもって追いすがる。そのとき空也上人「捨ててこそ」と、ひと言残して立ち去ったという。私欲・物欲を捨て去った時、人間ははじめて道が開けるということだろう。時宗の祖で『捨て聖』と呼ばれる一遍上人が、崇拝していたといわれている。まさに空也上人こそ、『元祖捨て聖』だったのである。
この寺の境内には、正岡子規の句碑が立っている。「霜月の空也は骨に生きにけり」。「空也の肉体は白骨となっても、人々の胸には空也の念仏の教えが、今も生きている」という意味だそうだ。子規の時代はそうであったとしても、100年たった今も、はたしてその教えは生きているのだろうか?
戦乱の世にあって、明日の糧すらおぼつかない極貧にあえいでいた当時の人々は、浄土の世界を信じて、前向きに生きることを教えられた。今、自分達は有り余る物質に取り囲まれながら、それでもなお飽くことなく、次なるものを追い求めてとどまるところを知らない。この寺に来ると、「ちょっと、待てよ」という声が、何処からともなく聞こえてくる。つかの間であっても、その生き方の空しさを思い知らされる。山辺の道は、ただの癒しの道ではないのだ。
空也上人が三年の間この寺にとどまり、里人の教化に尽くしたとされ、本尊の釈迦三尊像とともに上人の像が安置されている。その像は、肉の削げ落ちた体に粗末な法衣をまとい、念仏を唱えながら開いた口から、6個の小さな仏像を連なって吐き出している。念仏「南無阿弥陀仏」の一言一言が仏となることの、表現らしい。
醍醐天皇の皇子ともいわれる上人は、念仏を唱えて全国を行脚し、道を開き橋を架け井戸を掘って、民衆を救済したとされる。あるとき、空也上人が京都の町中を歩いている時、ひとりの高僧が教えを乞うた。上人曰く「あなたのような立派な方に、私のような者がお教えすることは何もない」と言って立ち去ろうとするが、さらに袖をもって追いすがる。そのとき空也上人「捨ててこそ」と、ひと言残して立ち去ったという。私欲・物欲を捨て去った時、人間ははじめて道が開けるということだろう。時宗の祖で『捨て聖』と呼ばれる一遍上人が、崇拝していたといわれている。まさに空也上人こそ、『元祖捨て聖』だったのである。
この寺の境内には、正岡子規の句碑が立っている。「霜月の空也は骨に生きにけり」。「空也の肉体は白骨となっても、人々の胸には空也の念仏の教えが、今も生きている」という意味だそうだ。子規の時代はそうであったとしても、100年たった今も、はたしてその教えは生きているのだろうか?
戦乱の世にあって、明日の糧すらおぼつかない極貧にあえいでいた当時の人々は、浄土の世界を信じて、前向きに生きることを教えられた。今、自分達は有り余る物質に取り囲まれながら、それでもなお飽くことなく、次なるものを追い求めてとどまるところを知らない。この寺に来ると、「ちょっと、待てよ」という声が、何処からともなく聞こえてくる。つかの間であっても、その生き方の空しさを思い知らされる。山辺の道は、ただの癒しの道ではないのだ。
2008年08月14日
俳諧物語・鷹子の山辺の道―第三帖「素鵞(そが)神社」
「五郎兵衛谷古墳群」から数百メートルほど東に行ったところには、地元の人たちが「てんのうさん」と呼ぶ「素鵞神社」がある。天王山古墳の上にあることから、そう呼ばれているらしいが、いわゆる鎮守の森で、長いこと鷹子の人々を見守り続けてきた神社にちがいない。その「てんのうさん」のふもとには、立派な鳥居と碑が立っていて、それをくぐると両側にさつきの生垣を従えたなだらかな石段が、本殿へと導いてくれる。
その鳥居と碑の文字は、すぐ近くの日尾八幡宮の神官であった三輪田米山の手によるものである。その米山、江戸末期から明治の人で、神官をしながら書を研究し、その雄大で力強い書が評判を呼び、近隣の数多くの神社に石碑を残した。その書の特徴は型破りともいえる自由な造形と気宇壮大な空間感覚にあるといわれている。書の特徴をそのまま豪放無欲な性格で、いつも酩酊の後に筆をとったらしい。鳥居の左右の柱には「黄龍」「騰天」と刻まれている。黄竜は皇帝の権威を象徴する竜とされたらしいが、それらの文字が、「てんのうさん」と、どう関わっているのか定かではない。
数日前、眠気まなこをこすりながら、この鳥居の下まできたところで、石段を降りてきたばかりのおばあちゃんに出会った。朝の挨拶を交わした直後に、おばあちゃんは在らぬほうに目をやって、何か呟いている。よく聞いてみると、どうやら階段の上に帽子を忘れてきたらしい。挨拶の相手の帽子を見て思い出しのだ。お参りをして戻ってくるだけなら、「取って来てあげるから、ここで待ってて」と言ったのだろうが、裏山にまわるという心積りを持っていたからか、そ知らぬ顔をして上まで登ってしまった。ところが拝殿の前に来ると、お賽銭箱の横におばあちゃんの帽子らしき物がある。さすがにこれを見てしまっては、放って置くわけにもいかず、帽子をつかんで引き返しかけると、すでにおばあちゃんは階段の途中まで、あえぎながら登ってきている。あわてて駆け下りて帽子を届けると、おばあちゃんは礼を言った後、しきりに自分の老いを嘆いた。
別れた後、自分の不手際がいらだたしく、不愉快な気分になった。自分の予定を優先させたことへの後悔か?おばあちゃんの代わりに、自分が余分にあの石段を登ることの肉体的苦痛を、回避しただけのことか?自ら進んで朝の散歩をしていながら、何てことだ。それにしても、もう5年若かったらあんな石段、黄龍のごとくに上り下りできたのに。いや、五年前では無理かな?老いとはかなしいね~、おばあちゃん。
その鳥居と碑の文字は、すぐ近くの日尾八幡宮の神官であった三輪田米山の手によるものである。その米山、江戸末期から明治の人で、神官をしながら書を研究し、その雄大で力強い書が評判を呼び、近隣の数多くの神社に石碑を残した。その書の特徴は型破りともいえる自由な造形と気宇壮大な空間感覚にあるといわれている。書の特徴をそのまま豪放無欲な性格で、いつも酩酊の後に筆をとったらしい。鳥居の左右の柱には「黄龍」「騰天」と刻まれている。黄竜は皇帝の権威を象徴する竜とされたらしいが、それらの文字が、「てんのうさん」と、どう関わっているのか定かではない。
数日前、眠気まなこをこすりながら、この鳥居の下まできたところで、石段を降りてきたばかりのおばあちゃんに出会った。朝の挨拶を交わした直後に、おばあちゃんは在らぬほうに目をやって、何か呟いている。よく聞いてみると、どうやら階段の上に帽子を忘れてきたらしい。挨拶の相手の帽子を見て思い出しのだ。お参りをして戻ってくるだけなら、「取って来てあげるから、ここで待ってて」と言ったのだろうが、裏山にまわるという心積りを持っていたからか、そ知らぬ顔をして上まで登ってしまった。ところが拝殿の前に来ると、お賽銭箱の横におばあちゃんの帽子らしき物がある。さすがにこれを見てしまっては、放って置くわけにもいかず、帽子をつかんで引き返しかけると、すでにおばあちゃんは階段の途中まで、あえぎながら登ってきている。あわてて駆け下りて帽子を届けると、おばあちゃんは礼を言った後、しきりに自分の老いを嘆いた。
別れた後、自分の不手際がいらだたしく、不愉快な気分になった。自分の予定を優先させたことへの後悔か?おばあちゃんの代わりに、自分が余分にあの石段を登ることの肉体的苦痛を、回避しただけのことか?自ら進んで朝の散歩をしていながら、何てことだ。それにしても、もう5年若かったらあんな石段、黄龍のごとくに上り下りできたのに。いや、五年前では無理かな?老いとはかなしいね~、おばあちゃん。
2008年08月10日
俳諧物語・鷹子の山辺の道―第二帖「五郎兵衛谷古墳群」
我らが「鷹子の山辺の道」は、大和の古道「山辺の道」と並び称されるだけあって、いくつかの古墳群に包まれている。マンションを出て裏山に向かって5分と行かないところにある「五郎兵衛谷古墳群」と呼ばれる古墳群は、「蓮池」のすぐそばにある。発掘調査の終わった今、それらの古墳跡は「古墳農園」と称して、一般市民に農園として開放されていて、近くの小学生の手で作られた埴輪が道端に並べられていなければ、ちょっと目に古墳跡とは気が付かない。ここに引っ越した頃は、ちょうどアジサイの時期で、さまざまな種類のさまざまな色合いの花々が、新参者を快く歓迎してくれていた。

農園の中の小道を登っていくと、山の中腹に展望台のような広場がある。そこからは、おおよそ道後平野の南半分が見渡すことが出来る。松山市の郊外部に当たり、のどかで穏やかな町並みが、これぞ瀬戸内という雰囲気を醸し出している。その眺めの眼下に、来住(きし)舌状台地(地理学的名称)いう地域があって、7世紀の前葉にはこの地に大規模な大和朝廷の行政施設が造営されていたという。それらの遺跡は、「久米官衙遺跡群(久米官衙遺跡、来住廃寺跡)」として、国指定史跡となっている。そして、この官衙遺跡群と「五郎兵衛谷古墳群」とは、大きな関わりを持っていると言われている。ということは、この古墳の主達は、中央政府から派遣されて、はからずもこの地で果てた高級官僚ということなのか。それらの主達は、どんな思いでこの地を眺め、この地と関わって、ここに埋められたのか?現代社会のサラリーマンと、概して似たような思いだったのだろうか?愚にも付かない空想をしながら、ぼんやりと眺めていると、今にも主達が現れてすぐそばに座って話しかけてきそうである。

つい先だって夜の外出から戻ってきて、マンションのすぐ近くまで来たとき、何やら騒々しい歓声が遠くから聞こえてきた。ふと目を上げると、前方の山一帯に無数の小さな明かりが、暗闇の中で揺らめいているではないか。天の川の一部を切り取ってきたかのような、その幻想的な光景に引き込まれるようにして、マンションを通り過ぎ近づいて見ると、近くの小学生たちが、古墳の中に無数に置かれている埴輪の前に、ひとつひとつ蝋燭を点している。すぐ、近くの運動公園のグランドには、所狭しとテントが張りめぐらしてある。こんなにもお洒落なイベントが、どうやら夏休みキャンプのプログラムのひとつとして組み入れられたようだ。はたして子供たちは、ここに眠っている人たちへのどんな思いを持って、この灯を点したのだろう。千四百年の時間が経ったとはいえ、子供たちとここに眠る古代の人たちとの間に血のつながりがあったって不思議ではない。長い長い時間を越えて、彼らは繋がっているかもしれない。一方、一足早いお盆を迎えた古代の人たちも、どんな思いでこの夜を過ごしているか、知るよしもない。
農園の中の小道を登っていくと、山の中腹に展望台のような広場がある。そこからは、おおよそ道後平野の南半分が見渡すことが出来る。松山市の郊外部に当たり、のどかで穏やかな町並みが、これぞ瀬戸内という雰囲気を醸し出している。その眺めの眼下に、来住(きし)舌状台地(地理学的名称)いう地域があって、7世紀の前葉にはこの地に大規模な大和朝廷の行政施設が造営されていたという。それらの遺跡は、「久米官衙遺跡群(久米官衙遺跡、来住廃寺跡)」として、国指定史跡となっている。そして、この官衙遺跡群と「五郎兵衛谷古墳群」とは、大きな関わりを持っていると言われている。ということは、この古墳の主達は、中央政府から派遣されて、はからずもこの地で果てた高級官僚ということなのか。それらの主達は、どんな思いでこの地を眺め、この地と関わって、ここに埋められたのか?現代社会のサラリーマンと、概して似たような思いだったのだろうか?愚にも付かない空想をしながら、ぼんやりと眺めていると、今にも主達が現れてすぐそばに座って話しかけてきそうである。
つい先だって夜の外出から戻ってきて、マンションのすぐ近くまで来たとき、何やら騒々しい歓声が遠くから聞こえてきた。ふと目を上げると、前方の山一帯に無数の小さな明かりが、暗闇の中で揺らめいているではないか。天の川の一部を切り取ってきたかのような、その幻想的な光景に引き込まれるようにして、マンションを通り過ぎ近づいて見ると、近くの小学生たちが、古墳の中に無数に置かれている埴輪の前に、ひとつひとつ蝋燭を点している。すぐ、近くの運動公園のグランドには、所狭しとテントが張りめぐらしてある。こんなにもお洒落なイベントが、どうやら夏休みキャンプのプログラムのひとつとして組み入れられたようだ。はたして子供たちは、ここに眠っている人たちへのどんな思いを持って、この灯を点したのだろう。千四百年の時間が経ったとはいえ、子供たちとここに眠る古代の人たちとの間に血のつながりがあったって不思議ではない。長い長い時間を越えて、彼らは繋がっているかもしれない。一方、一足早いお盆を迎えた古代の人たちも、どんな思いでこの夜を過ごしているか、知るよしもない。
2008年08月06日
俳諧物語・鷹子の山辺の道―第一帖「蓮池」
今度の松山での生活は、道後平野の中心部で松山市でいえば東温市との境界部、東部に位置した鷹子町という郊外に、始まっている。南には新旧の国道11号線が東西に並行して走って、その真ん中を伊予鉄横河原線も走っており、鷹子駅には徒歩5分という車でも電車でもこの上なく便利なところである。その上、新しい職場までは車で5分、歩いても20分余りで、六月頃のまだ暑さが穏やかな季節には散歩がてらに歩いたものだ。マンションの北側には、すぐそばに高縄山系が迫ってきており、すっかり緑に覆い尽くされている。
その緑の中を、東西に走る小道がこれからご紹介する、我が新たなる俳諧の道である。この道はその名を「鷹子の山辺の道」と呼び、かの大和の古道「山辺の道」と並び称される伊予の古道なのである。もっともそのことは、近隣の数名しか知らないらしい。
毎晩のように酒を食らって酩酊し、早々と就眠に着くという規則正しい生活をしていると、とにかく朝が早い。夜の明けるのを待たずに目を覚まし、新しい一日を迎えるにあたって、精神と肉体を鍛えんがために、この山辺の道を修験僧のような顔をして、毎朝俳諧をしている。しかし、とにかくこの暑さである、いつ熱中症で倒れるやも知れない。「ハブやマムシに気をつけろ」という看板も出ている。
そんな過酷な状況にあっても、この道の周辺には至る所に癒しのスポットがある。そのひとつが、この蓮池である。歩き始めた6月の頃、マンションを出て5分と行かないところに在るこの池では、ここに住み着いた無数のアマガエル(ガマガエル?)と、背後の山やまに落ち着いた鶯たちと、名前も知らない数々の小鳥達とが、互いに声を張り上げて合唱して迎えてくれる。それはまさに自然のコンサートホールなのである。
半月ほど前から、その蓮池に今度は蓮の花が咲き始めた。

この花は、泥から生え気高く咲く花、まっすぐに大きく広がり水を弾く凛とした葉の姿が、俗世の欲にまみれず清らかに生きることの象徴のようにとらえられ、このイメージは仏教にも継承されている。その仏教では釈尊が蓮華の上で瞑想する絵が描かれ、極楽浄土の象徴とされる。奇しくも、この池のすぐそばに、これからこのシリーズで紹介する極楽寺と浄土寺がならんで建っている。言うまでもなく、極楽寺は伊予十三仏の六番札所、浄土寺は四国八十八ヶ寺の四十九番札所であって、由緒正しい有り難いお寺なのである。
その緑の中を、東西に走る小道がこれからご紹介する、我が新たなる俳諧の道である。この道はその名を「鷹子の山辺の道」と呼び、かの大和の古道「山辺の道」と並び称される伊予の古道なのである。もっともそのことは、近隣の数名しか知らないらしい。
毎晩のように酒を食らって酩酊し、早々と就眠に着くという規則正しい生活をしていると、とにかく朝が早い。夜の明けるのを待たずに目を覚まし、新しい一日を迎えるにあたって、精神と肉体を鍛えんがために、この山辺の道を修験僧のような顔をして、毎朝俳諧をしている。しかし、とにかくこの暑さである、いつ熱中症で倒れるやも知れない。「ハブやマムシに気をつけろ」という看板も出ている。
そんな過酷な状況にあっても、この道の周辺には至る所に癒しのスポットがある。そのひとつが、この蓮池である。歩き始めた6月の頃、マンションを出て5分と行かないところに在るこの池では、ここに住み着いた無数のアマガエル(ガマガエル?)と、背後の山やまに落ち着いた鶯たちと、名前も知らない数々の小鳥達とが、互いに声を張り上げて合唱して迎えてくれる。それはまさに自然のコンサートホールなのである。
半月ほど前から、その蓮池に今度は蓮の花が咲き始めた。
この花は、泥から生え気高く咲く花、まっすぐに大きく広がり水を弾く凛とした葉の姿が、俗世の欲にまみれず清らかに生きることの象徴のようにとらえられ、このイメージは仏教にも継承されている。その仏教では釈尊が蓮華の上で瞑想する絵が描かれ、極楽浄土の象徴とされる。奇しくも、この池のすぐそばに、これからこのシリーズで紹介する極楽寺と浄土寺がならんで建っている。言うまでもなく、極楽寺は伊予十三仏の六番札所、浄土寺は四国八十八ヶ寺の四十九番札所であって、由緒正しい有り難いお寺なのである。
2008年08月02日
「時のにじまない朝」
松山に戻って2ヶ月が経って、今日ようやくこうしてブログを書く環境が整った。かつての国策会社であったとはいえ、未だにこんなサービスで生き残っていられる会社がこの世に存在するのが、不思議で仕方がない。
いきなり得意のぼやきで始まってしまったが、それはともかく2ヶ月もの間音信不通のままになって、何処で野垂れ死んだかと心配してくれている人達に、こうして便りを書けてほっとしている。(そんな人、何処にも居ないか)
しかし、ブログを書くというのは、いつか書いたかも知れないが、誰かに読んでもらうということよりも、自分の脳味噌の体操という意味合いのほうが強いかもしれない。
先日、80歳になる叔母が「毎朝5時過ぎに起きて散歩に出かけるようにしているが、起きてからの数十分は何をしているのか、自分でもよく分かっていない」と、老いを嘆いていた。丁度、芥川賞の発表があった時で、中国人によって書かれた「時のにじむ朝」という作品が受賞した。これにかこつけて、「あのタイトルの意味が分からなかったけれど、結局叔母ちゃんの朝のことか?」といって、からかってはいたが、実のところ自分の朝も相当あやしいのが分かっていた。
先日図書館で借りてきた「なじみの店」という池内紀の書いたエッセイの「あとがき」に、毎朝ラジオ体操をもとにして様々な工夫を懲らしたオリジナルの体操によって、体調の維持に余念がないのだが、ある日頭だけが仲間はずれになっていることに気付いた。「頭のほうも毎日、のばしたり、ひっぱたり、もみほぐしたりしなくてはなるまい。さもないと体はしなやかだが、頭は石のように固いなんてことになりかねない。それは異様な姿ではなかろうか。外から分からないことをいいことにして、こわばらせ、かたまらせ、朽ちさせていいものか。このエッセイは集は、そんな思いから自分に課した体操の成果である。」
こんな話を聞くと、単純な頭はじっとしていられなくなる。「時間のにじまない朝」を迎えるために、一刻も早くブログで体操を始めなければ、異様な姿をさらしてしまうことになりかねない。既に手遅れと言う声も聞こえてはいるのだが、とりあえず書いてみることにした・・・。
いきなり得意のぼやきで始まってしまったが、それはともかく2ヶ月もの間音信不通のままになって、何処で野垂れ死んだかと心配してくれている人達に、こうして便りを書けてほっとしている。(そんな人、何処にも居ないか)
しかし、ブログを書くというのは、いつか書いたかも知れないが、誰かに読んでもらうということよりも、自分の脳味噌の体操という意味合いのほうが強いかもしれない。
先日、80歳になる叔母が「毎朝5時過ぎに起きて散歩に出かけるようにしているが、起きてからの数十分は何をしているのか、自分でもよく分かっていない」と、老いを嘆いていた。丁度、芥川賞の発表があった時で、中国人によって書かれた「時のにじむ朝」という作品が受賞した。これにかこつけて、「あのタイトルの意味が分からなかったけれど、結局叔母ちゃんの朝のことか?」といって、からかってはいたが、実のところ自分の朝も相当あやしいのが分かっていた。
先日図書館で借りてきた「なじみの店」という池内紀の書いたエッセイの「あとがき」に、毎朝ラジオ体操をもとにして様々な工夫を懲らしたオリジナルの体操によって、体調の維持に余念がないのだが、ある日頭だけが仲間はずれになっていることに気付いた。「頭のほうも毎日、のばしたり、ひっぱたり、もみほぐしたりしなくてはなるまい。さもないと体はしなやかだが、頭は石のように固いなんてことになりかねない。それは異様な姿ではなかろうか。外から分からないことをいいことにして、こわばらせ、かたまらせ、朽ちさせていいものか。このエッセイは集は、そんな思いから自分に課した体操の成果である。」
こんな話を聞くと、単純な頭はじっとしていられなくなる。「時間のにじまない朝」を迎えるために、一刻も早くブログで体操を始めなければ、異様な姿をさらしてしまうことになりかねない。既に手遅れと言う声も聞こえてはいるのだが、とりあえず書いてみることにした・・・。
2008年05月20日
徘徊物語・宇治六帖-「チベットへ」
本堂でのお参りを済ませて時計を見ると、まだ2時前である。初夏の太陽は真上にあって、一日の時間はまだたっぷり残っている。「琴坂」を下り「朝霧橋」のたもとまで戻って、橋を渡るかどうか思案した。今回の徘徊では「中の島」にも川の左岸にも、足を踏み入れることさえしていない。そこには「平等院」をはじめ予定していた訪問先が、いくつも残っている。しかし、朝からの濃密な数時間に、肉体も精神も疲弊してしまったようで、これ以上徘徊を続けるだけのエネルギーは残っていなかった。残りの訪問先は次の楽しみにして、ひとまず引き上げること決める。
そうと決めたものの、黙ってこのまま帰るのも何か心残りな気がした。そこで、松山の叔母へのいたずら電話を思いついた。この叔母は、毎日のように殺風景な家の周りを徘徊しているので、目の前のこの素晴らしい風景を自慢してやれば、さぞかし悔しがることだろう。しかし、あいにく留守のようだ。仕方なく、品の良い造りの茶屋や蕎麦屋や喫茶店が立ち並ぶ「朝霧通り」を、心地よい疲労感を味わいながら「宇治駅」まで下っていった。
平日の昼下がりの「宇治駅」は、やっぱり閑散としている。ホームに上っても人影はまばらで、観光地の駅とは思えない。そんなホームに男女10人ばかりの若者の集団がいた。どうやら言葉からして、中国人のようである。同じ車両にドカドカと乗り込んできて、思い思いの小集団を作って、おしゃべりが始まった。見るところ留学生の集まりではなく、いわゆる富裕層の子息たちが、観光目的でこの地を訪れたようである。
思えば、たった今訪ねた「興聖寺」の開祖道元禅師にしても、弘法大師も伝教大使も、かって日本人の精神構造の形成において、重要な役割を果たしてきた先人たちは、皆中国で学んできた人たちである。2000年以上前にインドに誕生し、やがてチベット・中国・日本だけでなく、東アジア全域に根を張った仏教思想は、それぞれに形を変えて今日に至っている。そういう意味で、仏教思想はこの地域の人々の精神のルーツといえよう。しかし、特に日本と中国においては、先の世界大戦における敗戦を経験して、それぞれのやり方でこれまでの自らの精神基盤を全否定してしまった。その他の地域においても、物質文明に席捲されながら、かつての精神的ルーツを見失いつつある。そんな中にあってチベットこそは、純粋にそのルーツを保持している国である。ダライラマ14世のいうように、中国におけるチベット問題は単なる人権問題ではなく、貴重な人類の叡智の存亡の危機といえるのではなかろうか。中国の賑やかな若者たちの振る舞いを横目で見ながら、思いはいつしかチベットに移っていた。
今日の徘徊は、そもそも舟橋川の薫風が機縁となって、ここまで来てしまったが、次回はいっそのことチベットあたりまで、足を伸ばしてみようか知らん。
そうと決めたものの、黙ってこのまま帰るのも何か心残りな気がした。そこで、松山の叔母へのいたずら電話を思いついた。この叔母は、毎日のように殺風景な家の周りを徘徊しているので、目の前のこの素晴らしい風景を自慢してやれば、さぞかし悔しがることだろう。しかし、あいにく留守のようだ。仕方なく、品の良い造りの茶屋や蕎麦屋や喫茶店が立ち並ぶ「朝霧通り」を、心地よい疲労感を味わいながら「宇治駅」まで下っていった。
平日の昼下がりの「宇治駅」は、やっぱり閑散としている。ホームに上っても人影はまばらで、観光地の駅とは思えない。そんなホームに男女10人ばかりの若者の集団がいた。どうやら言葉からして、中国人のようである。同じ車両にドカドカと乗り込んできて、思い思いの小集団を作って、おしゃべりが始まった。見るところ留学生の集まりではなく、いわゆる富裕層の子息たちが、観光目的でこの地を訪れたようである。
思えば、たった今訪ねた「興聖寺」の開祖道元禅師にしても、弘法大師も伝教大使も、かって日本人の精神構造の形成において、重要な役割を果たしてきた先人たちは、皆中国で学んできた人たちである。2000年以上前にインドに誕生し、やがてチベット・中国・日本だけでなく、東アジア全域に根を張った仏教思想は、それぞれに形を変えて今日に至っている。そういう意味で、仏教思想はこの地域の人々の精神のルーツといえよう。しかし、特に日本と中国においては、先の世界大戦における敗戦を経験して、それぞれのやり方でこれまでの自らの精神基盤を全否定してしまった。その他の地域においても、物質文明に席捲されながら、かつての精神的ルーツを見失いつつある。そんな中にあってチベットこそは、純粋にそのルーツを保持している国である。ダライラマ14世のいうように、中国におけるチベット問題は単なる人権問題ではなく、貴重な人類の叡智の存亡の危機といえるのではなかろうか。中国の賑やかな若者たちの振る舞いを横目で見ながら、思いはいつしかチベットに移っていた。
今日の徘徊は、そもそも舟橋川の薫風が機縁となって、ここまで来てしまったが、次回はいっそのことチベットあたりまで、足を伸ばしてみようか知らん。
2008年05月19日
徘徊物語・宇治五帖-「朝霧通りと興聖寺」
「朝日焼」の深い因縁を知って、この世の成り立ちの原理に気付き、色恋沙汰から仏の道に方向転換をした徘徊老人が、次には向かうのは道元禅師の開いたという「興聖寺」である。「宇治橋」のあたりから川の流れを右に見ながら「朝霧橋」を通過して、さらに上流に上っていく1キロ余りの道に、「朝霧通り」という名前が付けられている。冷え込んだ朝には宇治川から立ち登る霧が、この川岸を包み込んで、幻想の世界に変身にさせるのだろうが、いまは五月の太陽のもとで、道沿いに生い茂る新緑の木々が、通りの上に鮮明な影を落としている。歩道のところどころには、この美しい眺めをキャンバスに写し取ろうとする人々が居る。
朝霧通り(緑映ゆ 朝霧の道 絵描き人)

「朝霧通り」の木立の影を踏みながら、歩くこと数分で「興聖寺」の山門にたどり着く。門を潜ると伽藍正面まで、なだらかな坂道が続いている。脇を流れる小川のせせらぎが琴の音に似ていることから、琴坂と呼ばれるようになったという。春は桜やヤマブキ、秋は紅葉の名所として知られているらしいが、この見事な新緑も訪れる人々に憩いと安らぎを与えずにはおかない。
琴坂の緑(せせらぎが 奏で聞かせる ほとけ道
歩き疲れた さ迷い人に)

坂を上りきると、掃き清められた参道を前に、朝日山の緑を背景にして、竜宮つくりのいかめしい山門が迎えてくれる。厳しい禅の道場を目の前にして、60余年も漫然と生きてきた人間であっても、思わず身も心も引き締まる思いがする。この寺は、道元禅師が伏見・深草の極楽寺跡に創建した興聖宝林寺が始まりで、その後禅師が永平寺に移って衰退したが、淀城主永井尚政によって再興されたという。今日では曹洞宗の修業道場ともなっているらしい。日曜参禅会などという看板が架かっているところをみると、一般人でも座禅を体験できるのかもしれない。しかし、残念ながら今日は日曜日ではない。
山門(山燃えて さらにいかめし 寺の門)

山門を潜ると、禅寺特有の凛とした空気に包まれた見事な庭園が広がる。目前に広がるこの空間を構成しているものは、単なる物質のみではない。道元禅師の時代はもとより、お釈迦様の時代からの先人たちの精神研磨の積み重ねが創り出した、目に見えない精神の建造物でもあるのだ。その建造物に続く道こそは、物質文明に席捲さてしまった現代社会が、近い将来破綻をきたして、いずれは戻っていかなければならない道ではなかろうか。その意味において、我々日本人は、この建造物を改めて理解し、自らが救われると同時に、後世に守り伝えていかなければならないと思う。
興聖寺の庭園

朝霧通り(緑映ゆ 朝霧の道 絵描き人)
「朝霧通り」の木立の影を踏みながら、歩くこと数分で「興聖寺」の山門にたどり着く。門を潜ると伽藍正面まで、なだらかな坂道が続いている。脇を流れる小川のせせらぎが琴の音に似ていることから、琴坂と呼ばれるようになったという。春は桜やヤマブキ、秋は紅葉の名所として知られているらしいが、この見事な新緑も訪れる人々に憩いと安らぎを与えずにはおかない。
琴坂の緑(せせらぎが 奏で聞かせる ほとけ道
歩き疲れた さ迷い人に)
坂を上りきると、掃き清められた参道を前に、朝日山の緑を背景にして、竜宮つくりのいかめしい山門が迎えてくれる。厳しい禅の道場を目の前にして、60余年も漫然と生きてきた人間であっても、思わず身も心も引き締まる思いがする。この寺は、道元禅師が伏見・深草の極楽寺跡に創建した興聖宝林寺が始まりで、その後禅師が永平寺に移って衰退したが、淀城主永井尚政によって再興されたという。今日では曹洞宗の修業道場ともなっているらしい。日曜参禅会などという看板が架かっているところをみると、一般人でも座禅を体験できるのかもしれない。しかし、残念ながら今日は日曜日ではない。
山門(山燃えて さらにいかめし 寺の門)
山門を潜ると、禅寺特有の凛とした空気に包まれた見事な庭園が広がる。目前に広がるこの空間を構成しているものは、単なる物質のみではない。道元禅師の時代はもとより、お釈迦様の時代からの先人たちの精神研磨の積み重ねが創り出した、目に見えない精神の建造物でもあるのだ。その建造物に続く道こそは、物質文明に席捲さてしまった現代社会が、近い将来破綻をきたして、いずれは戻っていかなければならない道ではなかろうか。その意味において、我々日本人は、この建造物を改めて理解し、自らが救われると同時に、後世に守り伝えていかなければならないと思う。
興聖寺の庭園
2008年05月18日
徘徊物語・宇治四帖-「朝霧橋と朝日焼」
「宇治上神社」から「さわらびの道」を南に下ると、「朝霧橋」のたもとに出る。初夏の日差しは一段と輝きを増し、清流宇治川の川面に反射して、きらきらと飛び跳ねている。写生をしているおばさんの近くの石の上に腰を下ろして、朝仕入れてきたおにぎりを取り出す。緑に包まれた対岸の「中の島」をまじかに見て、宇治川のせせらぎを聞き、心地いい香りの薫風に身をまかせ、そのおにぎりを口いっぱいに頬張った。目と耳と鼻と皮膚と口の、すべての五感が同時に忙しく働いて、さっきの「浮舟」の悲しい恋も、晶子の「乱れ髪」も、とっくにどこかに飛んでいってしまった。どんな高級なレストランのどんな豪華な料理より贅沢な昼食でお腹を一杯にして、さて昼寝でもと思ったが、徘徊予備軍を自認する身にとっては、あたりの目が少々気にかかる。
「朝霧橋」から「中の島」方面を望む

ふと振り向くと、直ぐ後ろの木立に身を隠すようにして立っている古風なつくりの家屋が、目に入った。入り口に近づくと「朝日焼」という文字が見える。どうやら焼き物の展示室のようだ。受付の女性に挨拶をして、中に入れてもらった。先客は一人もいない。こじんまりとした展示室には、茶道具類を中心として比較的小ぶりの作品が、整然と並べられている。淡いベージュを基調とした湯飲みや小皿は、得も言えない気品が感じられて、結構自分好みの品々である。さっきの受付の女性が、お茶を持って入ってきて、室内に備えてあるテレビに、説明用のカセットを入れて、「ごゆっくり」と言ってくれた。せっかくのおもてなしに応えて、座り込んでじっくりお勉強することにする。
「朝日焼」展示室

茶の湯の道には、「宇治焼」という名品だけは残っていて、その品々を焼いた釜は、「幻の釜」と呼ばれて、既にこの地から姿を消してしまった焼き物があるらしい。この「宇治焼」と「朝日焼」の関係については未だ明確ではないが、いずれにしても、「宇治茶」の故郷であり、茶の湯の文化が根づいていた土地柄に加えて、朝日山の土ときれいな水にも恵まれて、「朝日焼」は慶長年間(1600年ころ)に誕生したという。以来約400年を経て、現在の松村豊斎さんは、十四代目に当たるそうな。室内に並べられたひとつひとつの焼き物も、長い長い時間をかけてこうした地域の文化や風土や人々とのご縁を積み重ねて、ここに形を成しているということを、改めて思い知らされる。
焼き物の ひとつひとつを 眺めても
思い知るのは さまざまの縁
薫風に 誘い出されて 朝日焼
オソマツデシタ。
「朝霧橋」から「中の島」方面を望む
ふと振り向くと、直ぐ後ろの木立に身を隠すようにして立っている古風なつくりの家屋が、目に入った。入り口に近づくと「朝日焼」という文字が見える。どうやら焼き物の展示室のようだ。受付の女性に挨拶をして、中に入れてもらった。先客は一人もいない。こじんまりとした展示室には、茶道具類を中心として比較的小ぶりの作品が、整然と並べられている。淡いベージュを基調とした湯飲みや小皿は、得も言えない気品が感じられて、結構自分好みの品々である。さっきの受付の女性が、お茶を持って入ってきて、室内に備えてあるテレビに、説明用のカセットを入れて、「ごゆっくり」と言ってくれた。せっかくのおもてなしに応えて、座り込んでじっくりお勉強することにする。
「朝日焼」展示室
茶の湯の道には、「宇治焼」という名品だけは残っていて、その品々を焼いた釜は、「幻の釜」と呼ばれて、既にこの地から姿を消してしまった焼き物があるらしい。この「宇治焼」と「朝日焼」の関係については未だ明確ではないが、いずれにしても、「宇治茶」の故郷であり、茶の湯の文化が根づいていた土地柄に加えて、朝日山の土ときれいな水にも恵まれて、「朝日焼」は慶長年間(1600年ころ)に誕生したという。以来約400年を経て、現在の松村豊斎さんは、十四代目に当たるそうな。室内に並べられたひとつひとつの焼き物も、長い長い時間をかけてこうした地域の文化や風土や人々とのご縁を積み重ねて、ここに形を成しているということを、改めて思い知らされる。
焼き物の ひとつひとつを 眺めても
思い知るのは さまざまの縁
薫風に 誘い出されて 朝日焼
オソマツデシタ。
2008年05月17日
徘徊物語・宇治三帖-「さわらびの道」
たっぷりと王朝文学を堪能してミュージアムの外に出ると、五月の太陽が燦燦と降り注いでいる。しかし、「浮舟」の悲恋の物語は、まだ頭の中にこびり付いたまま、映画「寅さん」を見た後のように、意識は日常生活から逸脱している。こうなると、眠っていた徘徊老人の資質が、ますます輝きを増してくる。
ミュージアムから「宇治上神社」の脇を下って、宇治川の流れに沿った「朝霧通り」に繋がる、わずか1キロあるかないかの道を、「さわらびの道」と呼ぶらしい。「さわらび」とは「早蕨」と書いて、初物のわらびのことらしい。源氏物語四十八帖「早蕨」に、姉を亡くし独り侘しい思いをしている中君(なかのきみ)のもとに、宇治山の阿闍梨(あざり)から蕨や土筆の初物が届き、父が師と仰いでいた僧からの心遣いがとても嬉しく返歌をしたとある。その「さわらびの道」は、新緑の木立に覆われた静寂の中にありながらも、薫風に揺らめく木漏れ日にきらきらと輝き、何処となく華やいだ趣を醸し出している。
さわらびの道

濃密な薫風が昨夜の深酒を解消して、足取りも軽やかである。ミュージアムを出て直ぐのところに、与謝野晶子の立派な歌碑が立っている。幼い頃から古典文学に親しんだ晶子は、紫式部を終生の師と仰いでいたらしい。その晶子は、「源氏物語」の現代語訳に力を注ぐ傍ら、源氏物語五十四帖を五十四首の歌で再編成した「源氏物語礼讃」を著した。この歌碑は、そのうちの宇治十帖の十首が晶子の真筆で刻まれたものである。「浮舟」の帖に詠んだ歌は「何よりも危なきものとかねて見し小舟の上に自らをおく」とある。源氏物語を読んで、「浮舟」の恋を危険な恋と分かっていながら、いつしか自らも許されぬ恋に落ちていったことに、悔いはないという思いを歌ったのか?
与謝野晶子の歌碑

それにしても、危ない恋という意味では共通点はあるが、薫、匂宮の二人の男に翻弄され、ついには出家して世を捨てた「浮舟」と、歌集「乱れ髪」で男ばかりでなく、時代をも翻弄した晶子とでは、二人の性格はあまりにも違いすぎる。今や徘徊老人予備軍となったこの身にとって、どうでもよいことだが、どちらの女性を選ぶかといえば、断然「浮舟」であるなどと、愚にもつかないことを自問自答しながら、さわらびの道を先に進む。
やがて「宇治上神社」に着く。この神社は、本殿の中の3つの社が、現存する最古の神社建築であることと、拝殿が平安時代の住宅様式が取り入れられた建物であることから、平安神宮とともに世界遺産に登録されているらしい。
ミュージアムから「宇治上神社」の脇を下って、宇治川の流れに沿った「朝霧通り」に繋がる、わずか1キロあるかないかの道を、「さわらびの道」と呼ぶらしい。「さわらび」とは「早蕨」と書いて、初物のわらびのことらしい。源氏物語四十八帖「早蕨」に、姉を亡くし独り侘しい思いをしている中君(なかのきみ)のもとに、宇治山の阿闍梨(あざり)から蕨や土筆の初物が届き、父が師と仰いでいた僧からの心遣いがとても嬉しく返歌をしたとある。その「さわらびの道」は、新緑の木立に覆われた静寂の中にありながらも、薫風に揺らめく木漏れ日にきらきらと輝き、何処となく華やいだ趣を醸し出している。
さわらびの道
濃密な薫風が昨夜の深酒を解消して、足取りも軽やかである。ミュージアムを出て直ぐのところに、与謝野晶子の立派な歌碑が立っている。幼い頃から古典文学に親しんだ晶子は、紫式部を終生の師と仰いでいたらしい。その晶子は、「源氏物語」の現代語訳に力を注ぐ傍ら、源氏物語五十四帖を五十四首の歌で再編成した「源氏物語礼讃」を著した。この歌碑は、そのうちの宇治十帖の十首が晶子の真筆で刻まれたものである。「浮舟」の帖に詠んだ歌は「何よりも危なきものとかねて見し小舟の上に自らをおく」とある。源氏物語を読んで、「浮舟」の恋を危険な恋と分かっていながら、いつしか自らも許されぬ恋に落ちていったことに、悔いはないという思いを歌ったのか?
与謝野晶子の歌碑
それにしても、危ない恋という意味では共通点はあるが、薫、匂宮の二人の男に翻弄され、ついには出家して世を捨てた「浮舟」と、歌集「乱れ髪」で男ばかりでなく、時代をも翻弄した晶子とでは、二人の性格はあまりにも違いすぎる。今や徘徊老人予備軍となったこの身にとって、どうでもよいことだが、どちらの女性を選ぶかといえば、断然「浮舟」であるなどと、愚にもつかないことを自問自答しながら、さわらびの道を先に進む。
やがて「宇治上神社」に着く。この神社は、本殿の中の3つの社が、現存する最古の神社建築であることと、拝殿が平安時代の住宅様式が取り入れられた建物であることから、平安神宮とともに世界遺産に登録されているらしい。
2008年05月16日
徘徊物語・宇治二帖-「源氏物語ミュージアム」
あまり長く橋の上にじっとしていると、本物の徘徊老人に間違えられはしないかと、不安になってくる。宇治橋は渡らずに、反対の北東に向かって、なだらかな坂道を登ること6~7分、「源氏物語ミュージアム」の建物が見えてくる。平成10年にオープンしたこの施設は、常設展示室・企画展示室・図書室・講座室・物語に親しむ喫茶ショップコーナーなどで構成されていて、宇治市によって建設・運営されていている。こじんまりとした瀟洒なガラス張りのエントランスを入ると、中は団体客で結構混雑している。自分と同年輩の徘徊老人予備軍たちである。

自慢じゃないけど、「源氏物語」とは、光源氏という千年前のプレイボーイの女性遍歴の物語ということくらいしか、予備知識がない。そこでひとまず、比較的静かな企画展示室の「土佐派による源氏物語絵巻」で、お勉強することにした。その土佐派という純日本的ないわゆる大和絵の一画法を継承するこの流派は、平安時代にその画法を樹立して以来、およそ一千年の長きにわたって朝廷の絵所を世襲し、伝統と権勢を誇った流派だそうである。狩野派などにも影響を及ぼしたというが、まずその細密な描写に圧倒され驚かされる。
続いて、常設展示室の「春の部屋」で光源氏の邸宅「六条院」の1/100模型や、「秋の部屋」を見た後、映像展示室で篠田正浩監督の映画「浮舟」を鑑賞する。わずか20分ばかりの人形劇であるが、人形であるがゆえに、これほど見事に千年の昔を表現し得たのではないか。浮舟、大君(おおいきみ)、中君(なかのきみ)、薫、匂宮(におうのみや)らがおりなす男と女のお話が、幻想的な映像に移し変えられて現代に蘇る。それにしても、映像室を埋め尽くした他の徘徊予備軍さんたちはどんな思いで、この映画を鑑賞したのだろう。
千年の 昔も今も 色恋は
嬉しくもあり 哀しくもある(ナーンチャッテ)
それにしても予備軍さんたちよ、オレタチノジダイハ、ヨカッタノー。
自慢じゃないけど、「源氏物語」とは、光源氏という千年前のプレイボーイの女性遍歴の物語ということくらいしか、予備知識がない。そこでひとまず、比較的静かな企画展示室の「土佐派による源氏物語絵巻」で、お勉強することにした。その土佐派という純日本的ないわゆる大和絵の一画法を継承するこの流派は、平安時代にその画法を樹立して以来、およそ一千年の長きにわたって朝廷の絵所を世襲し、伝統と権勢を誇った流派だそうである。狩野派などにも影響を及ぼしたというが、まずその細密な描写に圧倒され驚かされる。
続いて、常設展示室の「春の部屋」で光源氏の邸宅「六条院」の1/100模型や、「秋の部屋」を見た後、映像展示室で篠田正浩監督の映画「浮舟」を鑑賞する。わずか20分ばかりの人形劇であるが、人形であるがゆえに、これほど見事に千年の昔を表現し得たのではないか。浮舟、大君(おおいきみ)、中君(なかのきみ)、薫、匂宮(におうのみや)らがおりなす男と女のお話が、幻想的な映像に移し変えられて現代に蘇る。それにしても、映像室を埋め尽くした他の徘徊予備軍さんたちはどんな思いで、この映画を鑑賞したのだろう。
千年の 昔も今も 色恋は
嬉しくもあり 哀しくもある(ナーンチャッテ)
それにしても予備軍さんたちよ、オレタチノジダイハ、ヨカッタノー。
2008年05月15日
徘徊・宇治へ―その1
昨日からの雨は上がったものの、空はどんよりとした曇に覆われているのに、朝食を終えると直ぐにリュックを背負って、部屋を飛び出していた。目指すは、「源氏物語」の舞台、宇治である。この物語が世に出て、今年はちょうど千年になるらしく、このところゆかりの各地で話題沸騰という感じであるる。だから宇治を選んだというわけではなく、単に先日の薫風に味しめて、徘徊癖のスケールが徐々に大きくなってきただけのことである。
京阪本線の中書島駅で宇治線に乗り換える。これまで、宇治には何度か来たことがあるが、最後に訪れたのは、田舎の両親が大阪に出てきた時だから、おそらく20年近く経っている。その頃すでに父は足を悪くしていて、飛行場内の移動すら車椅子を借りなければならなかった。それでも、孫たちと一緒に平等院を訪れたときは、何とか頑張って皆とお参りしたものだ。あの小旅行は、親孝行というにはおこがましい程のささやかなことだったが、父への最後の贈り物になってしまった。とりとめも無い思いに浸りながら、「黄檗」「六地蔵」などといかにも歴史を感じさせる駅名のわりに、殺風景な沿線の風景をぼんやりと眺めているうちに、「宇治」に着いた。
平日の10時過ぎとあって、観光地といえ宇治駅はさすがに閑散としている。駅前のコンビニで昼食のおにぎりとお茶を買って外に出る。空模様は、出掛けよりは多少ましになってきたが、いまいちである。「源氏物語ミュージアム」に向かう前に、宇治橋から久方ぶりの中ノ島や対岸の平等院の様子を眺めることにした。

646年に架けられたというこの橋は、その後幾たびか洪水の被害も受けたようだが、今の川の流れは、想像できないほどに穏やかで静かなたたずまいである。平安時代の貴族たちが、別荘地としてこよなく愛したこの地には、源氏物語の「宇治十帖」に語られているような悲恋のほかに、数々の戦乱の歴史も残っている。しかし、川の中央に浮かぶ中ノ島にも、対岸の平等院を包み込んだ木立にも、遠くにかすむ宇治田原・信楽の山々にも、今やその荒々しい姿は影をひそめて、ひたすら長閑である。
水温む 古(いにしえ)人の 夢の里
京阪本線の中書島駅で宇治線に乗り換える。これまで、宇治には何度か来たことがあるが、最後に訪れたのは、田舎の両親が大阪に出てきた時だから、おそらく20年近く経っている。その頃すでに父は足を悪くしていて、飛行場内の移動すら車椅子を借りなければならなかった。それでも、孫たちと一緒に平等院を訪れたときは、何とか頑張って皆とお参りしたものだ。あの小旅行は、親孝行というにはおこがましい程のささやかなことだったが、父への最後の贈り物になってしまった。とりとめも無い思いに浸りながら、「黄檗」「六地蔵」などといかにも歴史を感じさせる駅名のわりに、殺風景な沿線の風景をぼんやりと眺めているうちに、「宇治」に着いた。
平日の10時過ぎとあって、観光地といえ宇治駅はさすがに閑散としている。駅前のコンビニで昼食のおにぎりとお茶を買って外に出る。空模様は、出掛けよりは多少ましになってきたが、いまいちである。「源氏物語ミュージアム」に向かう前に、宇治橋から久方ぶりの中ノ島や対岸の平等院の様子を眺めることにした。
646年に架けられたというこの橋は、その後幾たびか洪水の被害も受けたようだが、今の川の流れは、想像できないほどに穏やかで静かなたたずまいである。平安時代の貴族たちが、別荘地としてこよなく愛したこの地には、源氏物語の「宇治十帖」に語られているような悲恋のほかに、数々の戦乱の歴史も残っている。しかし、川の中央に浮かぶ中ノ島にも、対岸の平等院を包み込んだ木立にも、遠くにかすむ宇治田原・信楽の山々にも、今やその荒々しい姿は影をひそめて、ひたすら長閑である。
水温む 古(いにしえ)人の 夢の里
2008年05月13日
薫風
風薫る季節が来た。別に徘徊老人を目指してトレーニングをしているわけではないが、この季節は特に部屋の中でじっとしていることが出来ずに、気が付けば外に飛び出している。そういう習性からして徘徊老人の素質は、十分に備えているのだろう。
それはともかく、家を飛び出して向かう先は、大体において近くを流れる舟橋川の堤である。生駒山系の北端にその源流を持ち、枚方市の東部で淀川に合流するこの川は、周りに住む多くの人々にかけがえの無い憩いの場を提供している。つい何週間か前には、川辺に植えられた桜並木が、訪れる人々を極楽浄土へと誘っていた。そして今、その桜たちは、そのピンクの花びらを惜しげもなく落とし、美しい緑へと装いを新たにしている。
薫風吹き抜ける舟橋川の川辺

その桜並木を吹き抜ける風は、得も言えない香りを持って、訪問者に癒しを届ける。この風のことを薫風というのだそうだ。この香りの正体は、なんでも「フィトンチッド」という物質で、新緑の鮮やかな頃樹木が自らの身を守るために放出するそうな。抗菌・防虫効果をもつこの物質は、人間にとっても自律神経の安定・肝機能の改善・快適な睡眠をもたらすといった効果があるらしい。
俳句の世界では、この薫風にちなんだ数多くの句が残されているが、われらが松山の生んだ俳人正岡子規も「薫風や 大文字を吹く 神の杜」と詠み、松山市の立花町にある井出神社に句碑が立っている。この神社の境内に張り出された近くの子供たちのお習字の作品の上を、薫風が吹きぬけていく様を詠ったものだ。堤防をあるきながら、そのことを思い出し、子規にあやかってというわけでもないが、あまりにも味気なかった、これまでのサラリーマン生活を振り返りながら、無理やりひねり出してみた。
薫風や 還暦にして 味を知る
それはともかく、家を飛び出して向かう先は、大体において近くを流れる舟橋川の堤である。生駒山系の北端にその源流を持ち、枚方市の東部で淀川に合流するこの川は、周りに住む多くの人々にかけがえの無い憩いの場を提供している。つい何週間か前には、川辺に植えられた桜並木が、訪れる人々を極楽浄土へと誘っていた。そして今、その桜たちは、そのピンクの花びらを惜しげもなく落とし、美しい緑へと装いを新たにしている。
薫風吹き抜ける舟橋川の川辺
その桜並木を吹き抜ける風は、得も言えない香りを持って、訪問者に癒しを届ける。この風のことを薫風というのだそうだ。この香りの正体は、なんでも「フィトンチッド」という物質で、新緑の鮮やかな頃樹木が自らの身を守るために放出するそうな。抗菌・防虫効果をもつこの物質は、人間にとっても自律神経の安定・肝機能の改善・快適な睡眠をもたらすといった効果があるらしい。
俳句の世界では、この薫風にちなんだ数多くの句が残されているが、われらが松山の生んだ俳人正岡子規も「薫風や 大文字を吹く 神の杜」と詠み、松山市の立花町にある井出神社に句碑が立っている。この神社の境内に張り出された近くの子供たちのお習字の作品の上を、薫風が吹きぬけていく様を詠ったものだ。堤防をあるきながら、そのことを思い出し、子規にあやかってというわけでもないが、あまりにも味気なかった、これまでのサラリーマン生活を振り返りながら、無理やりひねり出してみた。
薫風や 還暦にして 味を知る
2008年05月11日
朝の詩(うた)
産経新聞の朝刊には、毎朝「朝の詩」と題して1面の最上段に、読者から寄せられた詩が紹介される。この「猫」とタイトルの付いた詩も、そこに載っていたものである。
「猫」
ほととぎすが 鳴いたので
「ほーととぎーす はやもきなきて」と歌ったら
「うるさいなー」と猫が言いました
猫は 私が歌うと 迷惑そうな顔をします
猫は 音楽が嫌いなのではありません
下手がわかるのです
私がピアノを弾いたら 猫パンチもしました
神奈川県にお住まいの59才の女性による作品である。このわずか数行の詩から、作者の日常生活が、髣髴として浮かび上がってくる。おそらく、この方の子供たちは既に独立して、夫と二人きりの静かで慎ましい暮らしを営んでいるに違いない。彼女にとっては、ガソリンが値上がりしようが、近くのスーパーでバーゲンがあろうが、まるきりどうでもいい。日々庭先に作られた小さな花壇の手入れをしながら、そこに集まる鳥や虫たちや、傍らで眠たそうな目をして彼女を眺めている猫との会話があれば、それで十分である。時折その日の出来事を詩にしてみたりするだけで、十分満ち足りた平和な生活を楽しむことが出来る。彼女には、これ以上の何物をも必要としない。というより、これ以上の何かを欲しがれば、今手にしているものをも失ってしまうことを、分かっているのだろう。さらにはこの幸せに、ことさら執着するつもりも無い。
ところで、この詩にあって、彼女の歌を迷惑がる動物としては、猫をおいて他に何ものをも、演じることの出来ないだろう。十二支のどの動物であっても、この詩は成立しないと断じて思う。しかし、我が家で自分が作者を演じるなら、猫の役は女房でも息子でも娘でも、誰でも似合いそうだから不思議だ。
寝ぼけ眼をこすりながら手にする毎朝の新聞は、忌まわしい事件や解決の糸口すら見つからない数々の問題で埋め尽くされている。それらの記事が直接自分と関わり無いとは言え、一日の始まりから憂鬱な気分に包まれざるを得ない。しかし、こんな詩を見つけると、なんだかほっとさせてもらえる。
「猫」
ほととぎすが 鳴いたので
「ほーととぎーす はやもきなきて」と歌ったら
「うるさいなー」と猫が言いました
猫は 私が歌うと 迷惑そうな顔をします
猫は 音楽が嫌いなのではありません
下手がわかるのです
私がピアノを弾いたら 猫パンチもしました
神奈川県にお住まいの59才の女性による作品である。このわずか数行の詩から、作者の日常生活が、髣髴として浮かび上がってくる。おそらく、この方の子供たちは既に独立して、夫と二人きりの静かで慎ましい暮らしを営んでいるに違いない。彼女にとっては、ガソリンが値上がりしようが、近くのスーパーでバーゲンがあろうが、まるきりどうでもいい。日々庭先に作られた小さな花壇の手入れをしながら、そこに集まる鳥や虫たちや、傍らで眠たそうな目をして彼女を眺めている猫との会話があれば、それで十分である。時折その日の出来事を詩にしてみたりするだけで、十分満ち足りた平和な生活を楽しむことが出来る。彼女には、これ以上の何物をも必要としない。というより、これ以上の何かを欲しがれば、今手にしているものをも失ってしまうことを、分かっているのだろう。さらにはこの幸せに、ことさら執着するつもりも無い。
ところで、この詩にあって、彼女の歌を迷惑がる動物としては、猫をおいて他に何ものをも、演じることの出来ないだろう。十二支のどの動物であっても、この詩は成立しないと断じて思う。しかし、我が家で自分が作者を演じるなら、猫の役は女房でも息子でも娘でも、誰でも似合いそうだから不思議だ。
寝ぼけ眼をこすりながら手にする毎朝の新聞は、忌まわしい事件や解決の糸口すら見つからない数々の問題で埋め尽くされている。それらの記事が直接自分と関わり無いとは言え、一日の始まりから憂鬱な気分に包まれざるを得ない。しかし、こんな詩を見つけると、なんだかほっとさせてもらえる。
2008年04月13日
おめでとう金本
われらが「阪神タイガースの兄貴」が、やっと2000本目のヒットを打った。今シーズンタイガースは好調なスタートをきった。中でも広島から兄貴を追ってきた新加入の新井とともに、金本がチームのその好調を牽引してきたが、2000本へのリーチがかかってから、突然急ブレーキがかかったのように、次の1本が出るまでに19打席を要した。「ちょっとじらし過ぎました。ハイ、スイマセン」ヒーロー・インタビューの彼の言葉。プロ野球人生において、ありとあらゆる経験をつんできた入団17年目の大ベテランをもってしても、こんなことが起こるのである。おそらく本人は、2000本安打へのプレッシャーを大して意識することは、無かったのではないかと思う。1199試合フルイニング出場の世界記録を更新し続ける鉄人にとって、それは単なる通過点に過ぎないと思っていたであろう。
しかし、この18打席無安打は全くの偶然かというと、そうとも思えない。おそらく、彼の心の中にこれまでの平常心を狂わせる何かが、無意識のうちに混じりこんでいたのではないか。本人が意識的に把握することが出来ないほどの些細な何かが、彼本来のバッティングを阻害していたのではないか。それは、周りの騒ぎに飲まれまいとする気負いかもしれない。いずれにしても、そんな平常心のかすかな揺らぎでさえ、プロ野球の世界にあっては、その勝負を支配しかねない。プロの戦いとは、それほど拮抗した力の戦いであると同時に、それは単なる野球技術や肉体の強靭さや運動能力を超えた、最も目に見えにくい力の戦いではないか。
あれほど前評判の高かったジャイアンツが、開幕後13試合を戦って4勝8敗1分という結果にもがいている。あれほどの実績を積んできた選手たちを、金に物を言わせてかき集めてみも、そろってその実力を出し切ることが出来ずにいる。これも、その鳴り物入りの大物達が、そろって鳴り物入りであるがゆえに、金本と同じ「軽度平常心喪失症候群」にかかっているのである。タイガーズファンとしては、ずっとこのままこの病にかかっていて欲しいのであるが、残念ながらそうもいくまい。いずれ近いうちに病は癒えて、タイガースの前に立ちふさがるであろう。そのとき、タイガースの命運を決めるのは、今岡の回復度合いである。彼の場合は、かなり重度であることから、事態は深刻である。
何はともあれ、金本おめでとう。「このユニホームを着て、一本でも多くのヒットを打ちたい」という君の言葉、泣かせるねー。タイガースの若手に、ほんまの男の背中を、これからもずーっと見せ続けて欲しいね。
しかし、この18打席無安打は全くの偶然かというと、そうとも思えない。おそらく、彼の心の中にこれまでの平常心を狂わせる何かが、無意識のうちに混じりこんでいたのではないか。本人が意識的に把握することが出来ないほどの些細な何かが、彼本来のバッティングを阻害していたのではないか。それは、周りの騒ぎに飲まれまいとする気負いかもしれない。いずれにしても、そんな平常心のかすかな揺らぎでさえ、プロ野球の世界にあっては、その勝負を支配しかねない。プロの戦いとは、それほど拮抗した力の戦いであると同時に、それは単なる野球技術や肉体の強靭さや運動能力を超えた、最も目に見えにくい力の戦いではないか。
あれほど前評判の高かったジャイアンツが、開幕後13試合を戦って4勝8敗1分という結果にもがいている。あれほどの実績を積んできた選手たちを、金に物を言わせてかき集めてみも、そろってその実力を出し切ることが出来ずにいる。これも、その鳴り物入りの大物達が、そろって鳴り物入りであるがゆえに、金本と同じ「軽度平常心喪失症候群」にかかっているのである。タイガーズファンとしては、ずっとこのままこの病にかかっていて欲しいのであるが、残念ながらそうもいくまい。いずれ近いうちに病は癒えて、タイガースの前に立ちふさがるであろう。そのとき、タイガースの命運を決めるのは、今岡の回復度合いである。彼の場合は、かなり重度であることから、事態は深刻である。
何はともあれ、金本おめでとう。「このユニホームを着て、一本でも多くのヒットを打ちたい」という君の言葉、泣かせるねー。タイガースの若手に、ほんまの男の背中を、これからもずーっと見せ続けて欲しいね。
