2008年10月13日

俳諧物語・興居島-第四帖「大山祗神社」

 興居島の由良の港から1~2kmほど北に行くと、道の左手の山すそに「岩神神社」という、巨大な花崗岩を御神体とする神社がある。昨年の夏参拝し、このブログにも、その由来やら経緯を書いているが、「岩長姫」という祭神が祀られている。ブログを書くに当たって、その「岩長姫」のことをあれこれ調べているうちに、その姫の父神が今治の大山祗神社の祭神「大山祗大神」であることを知った。

 また、「捨て聖」一遍上人を追っかけているうちに、伊予の大豪族河野家の血を引く上人が、正応元年(1288)十二月と翌二年二月の二度、大三島を訪れて、先祖と縁の深いこの神社に参拝したことを知った。以来、この神社がやたらと気になり始めて、いつかお参りしてみたいと思っていた。期せずしてその機会が意外に早く訪れた。

 天気予報とは裏腹に、空には一面に雲がかかっており、せっかくの休日ドライブも気持ちが弾まない。しかし、車が今治ICから「しまなみ街道」に乗った途端に、目の前に広がる景色が、気分を一変させる。来島海峡に所狭しと点在する島々が作り出す風景は、まさに絶景と呼ぶに相応しい。数日前に「スリーデイズウォーク」とかいうイベントに、全国から多数の人々が集まったと聞いたが、さもありなんと納得した。その美しい景色を十分に堪能する間もなく、車は「大島」「伯方島」を過ぎて、目的の「大三島」ICに、あっという間に到着する。

        

 この社が祭られたのは、養老三年(719)というから、今から1290年ほど前である。しかし、境内を取り囲むようにして生い茂る楠の大木群は、樹齢2000年を超えると言われる。この神社が営まれるずっと以前から、このあたりは楠の大樹の生い茂る処であったということになる。それらの大樹の中でも、ひときわ目立っている木は、大山祇神の孫の乎千命(おちのみこと)が手ずからに植えたと伝えられる一木である。その大樹のそばの看板には、樹齢2600年と書いてある。人間で言えば100歳をゆうに超えているのではなかろうか。痛ましいというより、少々異様にすら見える。
 この看板を見て、伊予の豪族越智家の祖となった和気姫の第三子も、小千御子(おちのみこ)と呼ばれたことを思い出して、興居島との因縁を強く感じたのだが、どうやら繋がりはなさそうだ。(孝霊天皇の孫にあたる小千御子は、天皇の在位時期からすると紀元前200年以前の人と推察される。)

        

この神社は、山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社である。源氏、平家をはじめ多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈ったため、国宝、重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっているらしい。それらは、本殿の右側にある「宝物殿」に収められている。
  

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2008年10月09日

俳諧物語・鷹子の山辺の道―第六帖「道路工事」

 半月ほど前から古墳農園に、コスモスが咲き誇って我らが「山辺の道」に秋が訪れたことを告げている。この6月にこの地に移り住んだ時には、アジサイの花が一面に咲き乱れて、新しい住民に素晴らしい歓迎の宴を開いてくれた。夏には近くの子供たちと一緒に幻想的な灯りを燈して、ここに眠る古代の人々との交流の場を作ってくれた。その場所に異変が起ころうとしている。この写真の中央にある看板が、その異変を象徴している。道路工事が始まるというのである。

       

 どうしてこんな山里に新しい道路が必要なのだ。市の財政は破綻寸前だというのに、何を仕出かすのかと、首をかしがながら看板をよく見ると、配管工事のためのようである。すぐそばにある運動公園の地下にある配水池と山の裏側にある集落との間に、上水道の管を敷設するために、大規模な道路工事が行われるらしい。松山市は、毎年のように夏場水不足に悩まされており、市の中でも互いにやりくりをして、しのいでいかざるを得ないということか?

 それにしても、何と痛ましい姿であろうか。その配水池の周辺に植えられていた何本かの桜の木が、切り株のみを残して、いつの間にか姿を消してしまっている。来年の春の満開の花を楽しみにしていたのに。

       

 アジサイの季節に、アマガエルと鶯と名も知らない小鳥達が活躍していたコンサートホールも、掘り返されてむき出しになった赤土に覆われて、荒々しい手術の跡のように痛々しい。ついこの間まで、手前の池は、極楽浄土を思わせる蓮の花に埋め尽くされていた。その花々も姿を消し、枯れかけた葉だけがかろうじて、かすかな緑を保っている。その自然の摂理による現象すら、この工事のせいにしたくなる。それが人々の暮らしを守るための工事であるとは言え、やるせない思いにかられる。

      

 その蓮池の脇には、隣の町に通じる小道がある。その小道の両脇にある小さな畑を囲むようにして咲くコスモスが、朝夕の散歩を楽しむ人々に、この痛ましさを忘れさせようと微笑みかける。しかし、この道の先にも、あのシャベルによって傷つけられた、痛ましい姿が続いている。

 看板の情報によると、工事は来年の3月まで続くらしい。これからの半年の工事の喧騒は、やがて時間とともに消えて、元の静けさに帰っていくであろうが、これまであった「山辺の道」のあの姿は、戻ってくるのであろうか?
  

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2008年10月08日

俳諧物語・興居島-第三帖「船踊り」

 鷲ヶ巣のさわやかな浜風をうけながら食べるお弁当は、高級レストランのどんなお料理にも負けない程に美味しい。食べ終わった一行が次に目指すのは、いよいよ「船踊り」の会場「船越公園」である。釣島に別れを告げる間もなく、その会場の前の「和気比売神社」に到着する。「むかし、この島の和気五郎太夫という魚師が、ある日波間に漂う見慣れぬ壷を見つけて拾い上げると、壷の中に可愛い女の子が居た。子供の居なかった五郎太夫は、子供を天から授かったと大喜びして、大事に育てた。美しい娘で和気姫と呼ばれた。やがて、和気姫は、伊予皇子(孝霊天皇の第三皇子)と結ばれ、3人の男子を産んだ。その子らをそれぞれ三艘の小船に乗せて海に放ったところ、第一子は伊豆の国に、第二子は備前児島に、第三子は伊予の国三津浦に流れついた。その後、それぞれの地の豪族として栄えたが、第三子小千御子(おちのみこ)は、伊予の大豪族越智家の祖となった。」という、あの伝説の主、和気姫が祀られている神社である。

 承平年間(923~935)に遡るといわれる「船踊り」は、伊予水軍が海賊退治から凱旋したとき、これを迎える島民たちの前で、戦いの模様を武者踊りとして再現して見せたことに始まるとされる。その場所が、この船越の「和気比売神社」のすぐ前であったことから、いつの間にか踊りはこの神社の祭礼神事として、取り入れられるようになったといわれている。

 車を降りるや否や、公園に集まっていた大勢の群集がざわついている。急いで岸壁に近づいてみると、どうやら踊りの主役達が由良の港から船で到着したようだ。

      

 そうこうする内に、ちょうど一年ほど前に由良小学校の体育館で聞いたあの太鼓のリズムが、響いてきた。
        サッサ ケラマカッセー セーラ ホーホンエーラ ホーエンヤエェー
             ヨイヤ サノサ   サッサ ケラマカッセー
船踊りの始まりである。

    

 「○○チャン頑張れー」「日本いちー」集まった人々から、ひっきりなしに応援の声が飛ぶ。見物する人々の顔は、みな笑顔に輝いている。海の上の舞台と、岸壁の観衆が一体となった、年に一度の島の行事は、この後2時間にわたって繰り広げられた。公園の奥の神社では、あの和気姫様も、その一部始終をにこやかな笑顔で静かに見守っているに違いない。
   
   

 昨年この踊りを見るまでは、この島はどこか永い眠りについているような感じがしていた。ところがどっこい、踊りがはじまると同時に遠い昔の「伊予水軍」のエネルギーが、再び吹き出してきて、わくわくするような島になっていたのに、驚いたものだった。今回もまさに伝説と伝統の力が、島の人々に活力を吹き込みながら、「がんばれ」と励ましているかのようであった。

      

 3時5分由良発高浜行きのフェリーが出航しようとしている。島での滞在時間は、わずか4時間半ほどであった。しかし、この「船踊り」だけを見に来られた人も、「愛好会発会」に参加された人も、たっぷりと島の魅力に浸った時間をお土産にして、船に乗り込んで下さったに違いない。
  

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2008年10月07日

俳諧物語・興居島-第二帖「島巡り」

 発足会を終えて、一行は「船踊り」の会場である船越公園前に移動する。海岸沿いの道を行けば、車なら五分とかからないところだが、2,3日前の土砂崩れでその道がふさがれているらしい。そのためにと言うよりも、まずもってこの島の素晴らしい景色を新しいメンバーの方々に堪能していただくために、迂回路をゆくことになった。軽トラ2台と乗用車に1台に分乗して出発した一行は、由良小学校の横道を登って、一度島の反対側に出る。峠を越えると、忽那の島々を浮かべた穏やかな瀬戸内海が、目の前いっぱいに広がる。数ある島の宝物のうちでも、この景色は格別である。それまで軽トラの荷台でしゃがみこんで大人しくしていたが、途端に立ち上がって仁王立ちになり、海からの風を体いっぱいに受けて、やがて凧になっていた。テニスボールの大きさに育った伊予柑が、まわりの山一面を埋め尽くしている。 

 高戸山の麓のOさんの山荘近くを通って暫く行くと、今度は前方に釣り島、左手に小富士山、右手にさっきから見てきた忽那の島々、眼下には鷲ヶ巣の浜が一望できるポイントに到着する。車を止めて会員さんたちは、Oさんからこの素晴らしい景色の解説に耳を傾ける。釣島は、フェリーから見た小富士山と同様に、霞がかかってぼんやりとしている。来月の我々の訪問を歓迎するかのように、昼間だというのに灯台が時折光を放っている。

  

 遠くにかすむ島々や鷲ヶ巣の浜の美しさに、誰もが見とれてしまうこのポイントのその道路の脇の茂みの影にひっそりと立つ小さなお堂がある。島四国五十二番札所「仙遊寺」である。こんな立派な道路が出来るずっと以前には、このあたりに仙人が住んでいて、この景色を楽しみながら島の人々の暮らしを見守っていたとしても不思議ではない。

          

 美しい眺めに名残を惜しんで、一行は鷲ヶ巣の浜へと下りる。シーズンを外れた人っ子一人いない海水浴場は、どこまでも静かで少々物悲しい。さっき山の上から眺めた釣島も、凪の海に眠っているかのように横たわっている。

  

 浜にそって走る道路の反対側に、小さな公園がある。ここが今日の昼食の場所である。メンバーは思い思いに腰を下ろして、配られたお弁当に舌鼓を打つ。
  

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2008年10月05日

俳諧物語・興居島―第一帖「愛好会発足」

 10月4日10時40分高浜発由良行きのフェリー「あいらんど号」は、いつもの日曜日より多くの乗船客を乗せて、時間通り静かに出港した。このところぐずついていた天気も、昨日からカラッと晴れ上がって、秋晴れの空は、一段と高さを増している。しかし、今日の小富士の山は、幾分靄がかかってなんだか恥らっているように見える。

       

 今日は待ちに待った我らが「興居島愛好会」の発足会の日である。昨年の5月にOさんに誘われて、初めて興居島を訪れ、たちまちその魅力に取り付かれてしまった。四季折々の眺めといい、島の至る所に残されている伝説や歴史の痕跡といい、現代人が最も必要としている品々が、どうしてこれまでうち捨てられてきたのか、不思議でならなかった。何とかして、この素晴らしい宝物を一刻も早く皆に知ってもらい、末永く残して生きたい。そんな思いで始まったささやかな活動が、こうしてようやく愛好会発足の日を迎えようとしている。そんな晴れがましい日を迎えて、小富士の山もさぞかし嬉しかろうが、霞の陰にその嬉しさを押し隠しているのか?そんなつかの間の感慨に浸っているうちに、いつの間にか船は、由良の港についてしまった。

 今日の由良の港には、大漁旗を立て太鼓を仕立てた船が停泊していて、いつもより華やいでいる。そう、今日は愛好会の発足会とともに「船踊り」の日でもある。その祭りの主役達が、これらの着飾った船に乗って、この港から会場の船越公園前まで海上を移動するのである。桟橋の向こうには、小富士汽船の社長のYさんのにこやかな笑顔が、出迎えてくれている。

       


 やがて由良のフェリー待合室にて、「発足会」が始まる。まず、世話人代表のOさんから、今日始めて参加された人たちに、会のこれまでの経緯や主旨を説明していただく。事前打ち合わせの時には、腰が引けていた感じのOさんも、本番が始まると観念したのか、しっかりと世話人代表のお役目を果たしていただいた。引き続き、会員紹介・行事計画・ホームページの紹介と事務局から説明が続く。行事計画には、今日の「船踊り見学」に始まって、来年の9月まで「釣島灯台めぐり」「蜜柑狩り」「高戸山句会」など毎月魅力的なイベントで、埋め尽くされている。事務局のTさんが、昨年暮れから手塩にかけて作り上げた愛好会ホームページも、晴れてお披露目と相成った。愛好会発会を機に「俳句コーナー」なども加わって、今後益々充実していくことだろう。
 急な話だったので会員全員参加とはいかなかったが、予想以上に多数の方々に新しくご出席いただき、無事に発足会を終えることが出来、いよいよ発足会の舞台は、「船踊り」の会場へと移っていく。
  

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