2008年05月19日
徘徊物語・宇治五帖-「朝霧通りと興聖寺」
「朝日焼」の深い因縁を知って、この世の成り立ちの原理に気付き、色恋沙汰から仏の道に方向転換をした徘徊老人が、次には向かうのは道元禅師の開いたという「興聖寺」である。「宇治橋」のあたりから川の流れを右に見ながら「朝霧橋」を通過して、さらに上流に上っていく1キロ余りの道に、「朝霧通り」という名前が付けられている。冷え込んだ朝には宇治川から立ち登る霧が、この川岸を包み込んで、幻想の世界に変身にさせるのだろうが、いまは五月の太陽のもとで、道沿いに生い茂る新緑の木々が、通りの上に鮮明な影を落としている。歩道のところどころには、この美しい眺めをキャンバスに写し取ろうとする人々が居る。
朝霧通り(緑映ゆ 朝霧の道 絵描き人)

「朝霧通り」の木立の影を踏みながら、歩くこと数分で「興聖寺」の山門にたどり着く。門を潜ると伽藍正面まで、なだらかな坂道が続いている。脇を流れる小川のせせらぎが琴の音に似ていることから、琴坂と呼ばれるようになったという。春は桜やヤマブキ、秋は紅葉の名所として知られているらしいが、この見事な新緑も訪れる人々に憩いと安らぎを与えずにはおかない。
琴坂の緑(せせらぎが 奏で聞かせる ほとけ道
歩き疲れた さ迷い人に)

坂を上りきると、掃き清められた参道を前に、朝日山の緑を背景にして、竜宮つくりのいかめしい山門が迎えてくれる。厳しい禅の道場を目の前にして、60余年も漫然と生きてきた人間であっても、思わず身も心も引き締まる思いがする。この寺は、道元禅師が伏見・深草の極楽寺跡に創建した興聖宝林寺が始まりで、その後禅師が永平寺に移って衰退したが、淀城主永井尚政によって再興されたという。今日では曹洞宗の修業道場ともなっているらしい。日曜参禅会などという看板が架かっているところをみると、一般人でも座禅を体験できるのかもしれない。しかし、残念ながら今日は日曜日ではない。
山門(山燃えて さらにいかめし 寺の門)

山門を潜ると、禅寺特有の凛とした空気に包まれた見事な庭園が広がる。目前に広がるこの空間を構成しているものは、単なる物質のみではない。道元禅師の時代はもとより、お釈迦様の時代からの先人たちの精神研磨の積み重ねが創り出した、目に見えない精神の建造物でもあるのだ。その建造物に続く道こそは、物質文明に席捲さてしまった現代社会が、近い将来破綻をきたして、いずれは戻っていかなければならない道ではなかろうか。その意味において、我々日本人は、この建造物を改めて理解し、自らが救われると同時に、後世に守り伝えていかなければならないと思う。
興聖寺の庭園

朝霧通り(緑映ゆ 朝霧の道 絵描き人)
「朝霧通り」の木立の影を踏みながら、歩くこと数分で「興聖寺」の山門にたどり着く。門を潜ると伽藍正面まで、なだらかな坂道が続いている。脇を流れる小川のせせらぎが琴の音に似ていることから、琴坂と呼ばれるようになったという。春は桜やヤマブキ、秋は紅葉の名所として知られているらしいが、この見事な新緑も訪れる人々に憩いと安らぎを与えずにはおかない。
琴坂の緑(せせらぎが 奏で聞かせる ほとけ道
歩き疲れた さ迷い人に)
坂を上りきると、掃き清められた参道を前に、朝日山の緑を背景にして、竜宮つくりのいかめしい山門が迎えてくれる。厳しい禅の道場を目の前にして、60余年も漫然と生きてきた人間であっても、思わず身も心も引き締まる思いがする。この寺は、道元禅師が伏見・深草の極楽寺跡に創建した興聖宝林寺が始まりで、その後禅師が永平寺に移って衰退したが、淀城主永井尚政によって再興されたという。今日では曹洞宗の修業道場ともなっているらしい。日曜参禅会などという看板が架かっているところをみると、一般人でも座禅を体験できるのかもしれない。しかし、残念ながら今日は日曜日ではない。
山門(山燃えて さらにいかめし 寺の門)
山門を潜ると、禅寺特有の凛とした空気に包まれた見事な庭園が広がる。目前に広がるこの空間を構成しているものは、単なる物質のみではない。道元禅師の時代はもとより、お釈迦様の時代からの先人たちの精神研磨の積み重ねが創り出した、目に見えない精神の建造物でもあるのだ。その建造物に続く道こそは、物質文明に席捲さてしまった現代社会が、近い将来破綻をきたして、いずれは戻っていかなければならない道ではなかろうか。その意味において、我々日本人は、この建造物を改めて理解し、自らが救われると同時に、後世に守り伝えていかなければならないと思う。
興聖寺の庭園
Posted by オイボレブローガー at 10:05│Comments(0)│TrackBack(0)
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